9月 10日 菊(きく)
ご機嫌よろしゅうございます。
道に咲く花に目をやると、薄や撫子、女郎花など
草花もやはり秋の風情を季節を感じられるものが
咲きだすようになりました。
菊も重陽の節句に用いられるように
秋には欠かせない花ですが、
この菊、夏には夏菊、冬には冬菊、春には春菊(はるぎく)
と一年を通じて用いられる、日本人に
昔から愛されてきた花です。
茶人達も古くから菊を愛用し、戦国時代には
津田宗達、宗及、今井宗久、千利休などの
茶会記に、名器に生けられた菊が頻繁に登場します。
江戸時代に入ると花の種類も沢山増え、
用いる回数もだいぶ減ってきますが、
それでもやはり、日本人にとっての菊は
今日まで特別な存在であることは間違いありません。
9月9日 重陽の節句
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は9月9日 重陽の節句です。
現在ではあまり馴染みが薄いかもしれませんが
端午、七夕などと同じ五節句のうちの一つです。
古来中国では陰陽の考えから奇数を陽とし
その奇数が重なる日を節句としてお祝いしていました。
そして奇数のうちで最も大きい奇数である9が重なる
9月9日は大変おめでたいとされ、
菊を浮かべた酒を飲んだり
被綿(きせわた)といって、真綿で菊を包み、菊の露や香りの移った
その綿で肌をぬらすなどして長寿を祝いました。
「枕草子」にも
菊の露もこちたく
覆いたる綿などもいたれ濡れ、
うつしの香ももてはやされて…
と着せ綿の様子が記されています。
宗家の稽古場でも、この日には
ご先代が大和絵をもとに再現した着せ綿
をお家元が床の間に飾られます。
9月 8日 七世宗友公命日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は小堀家七世宗友公についてお話しします。
寛保2年(1742)、5世宗香公が53歳の時に
伏見で誕生します。
宗香公の嫡子には不幸が多く、
孫にあたる政寿を養嗣子として願い出ますが
その後に宗友が生まれ、11歳で元服、
嗣子となることが幕府より許されます。
20歳の時、父宗香が他界すると遺領を継ぎ、
後に伏見奉行となります。
歴代の小室藩主は、遠州公以来伏見奉行などの
幕府の重要な役職に就いていたので、主に江戸にいて
小室藩の実際の治世は、陣屋にいた家臣達が担っていました。
その結果、小室藩の財政は徐々に悪化。
領民への借財や増税などでこの難局を乗り切ろうとした小室藩は、
幕府からそのことを咎められ、天明8年(1788)に改易されます。
小室藩は、遠州公以来の土地を没収され、借金の返済のため、
遠州公以来収集してきた数々の美術工芸品を失い、
宗友公は小田原に退身します。
茶法は父宗香より伝承し、
小堀家茶道頭の富岡友喜(とみおかゆうき)と共に、
「喫茶式」「数寄記録」等の伝書を自書、編纂して、
古法の伝達と共に、今日の遠州流茶道のまとめの役を果たし、
その作品等も数多く伝来しています。
享和3年(1803)の9月8日になくなります。
62歳でした。
9月7日 蒼天庵(そうてんあん)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は名古屋の「蒼天庵」にて茶会が行われます。
この茶室は宗実お家元が監修された茶室で
中京地区における遠州流茶道研修道場としても位置付けられております。
施主は家元直門の鈴木宗霄氏で、
建造にあたっては、御家元とご一緒に茶室に使用される木材から露地の
石に至るまで吟味されています。
三好市工業地区に位置する内藤商会の
工場最上階に作られたその茶室は、
室内でありながら、 そのスケールを越えて
外へつながる広がりを感じさせ
ビルの上ながら、露地を一望でき、
茶室の庵号も「蒼天庵」と
どこまでも続く空の青さを想起させてくれます。
四畳半台目の小間「蒼天庵」に、
各十畳の二間続きの広間
さらに厨房や、控えの間などが設備され
この度新しく70人程が研修できるホールが完成しました。
さらに映画「父は家元」でも放映されていましたが、
お家元が小間に竹型の照明を考案され、
茶室の雰囲気を壊すことのない、調和のとれた
灯りの中お茶を楽しむことができます。
本日の茶会は、一般の方にもご参加いただけますので
ご興味のある方は、事務局まで
お気軽にお問い合わせください。
9月6日 中秋の名月
ご機嫌よろしゅうございます。
明後日の9月8日は十五夜です。
中国では旧暦7月を初秋、8月を仲秋、9月を晩秋といい
それぞれの月の満月の夜には月見の宴を開きました。
特に一年のうちで最も明るく美しい月がでるとされる
仲秋8月15日は、「十五夜」と呼び、愛でられており
日本でもこの風習が平安時代に貴族の間に広まります。
中国では満月が最も美しいとされていましたが、
日本ではこれから満ちて行く月、欠けていく月
新月から満月に至るまでのそれぞれの月に名前をつけ
その月の変化も楽しみました。
立って待つから「立待月(たちまちづき)」
座って待つ「居待月(いまちづき)」
寝て待つから「寝待月(ねまちづき)」
…といった具合です。
遠州公の「満つれば欠くる」美意識
それに共通する、不可足の美の精神が
古くから日本人の心の中にあったことが
この月の名前からも感じられるのではないでしょうか。
さて、今年の十五夜は満月になり、とても珍しいとのこと。
十五夜だから毎回満月…ではないのです
9月5日 袱紗をつける位置
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は袱紗を腰につける位置について
お茶を点てる際、点法で使う袱紗を
腰につけますが、これを右につける流儀と
左につける流儀があります。
遠州流は右側です。その理由は
近衛家の待医師であった山科道安が、近衛予楽院の言行を
日記風に著わした「槐記」という
文献の中にこんな記述があります。
宗旦は生まれ付き左利きにてあり故に…
千宗旦は利休の孫にあたり、後にその子供達が表千家、
裏千家、、武者小路千家をつくっていきます。
つまり宗旦から広まった千家流では
袱紗を左につけているということのようです。
要するに利き手の違い。
右利きだった茶人は、当然右につけていたと考えられます。
その違いが今お流儀の点法の違いにつながっていく
のだとすると、面白いですね。
9月4日 虚堂智愚(きどうちぐ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は南宋時代の高僧「虚堂智愚」について
お話をしたいと思います。
虚堂智愚は、四明象山(浙江省)の出身。
諸刹に歴住し、宋の理宗と度宗の帰依を受けた高僧で
日本から入宋した多くの禅僧が参じました。
とりわけ宗峰妙超(大燈国師)の師である
南浦紹明(なんぽしようみよう)はその法を継いで
帰朝し,大徳寺,妙心寺両派によってその法脈を今に伝えています。
後に茶道が大徳寺派の禅と密接な関係をもって発展することから
虚堂の墨跡は大変珍重されました。
その有名なものに「破れ虚堂」があります。
武野紹鴎が愛玩し、後に京都の豪商大文字屋が手に入れます。
ところが寛永14年(1637)、使用人が蔵に立てこもって
この掛け物を切り裂き、自害するという事件が起こりました。
この事件により「破れ虚堂」という名称が生まれ、
皮肉なことにその名声もこれまで以上に広まりました。
江戸時代後期に松江藩主、松平不昧が入手し、
永く雲州松平家に伝えられました。
現在ではどこが破れたのかわからないほど綺麗に
修復されて、現在は東京国立博物館の所蔵となっています。
今日はその虚堂智愚のご命日にあたります。
(1185ー1269)
9月 3日 おわら風の盆
ご機嫌よろしゅうございます。
暦の上では秋を迎え、初秋の風の吹く9月。
各地ではお祭りがまだまだ行われています。
その中で幻想的といった言葉が当てはまるのが
この「おわら風の盆」ではないかと思います。
富山県富山市八尾
この地域で元禄の頃から続き、
守り伝えられてきた民謡行事。
夕暮れ時、柔らかい灯りがともされます。
その通りを揃いの浴衣に、編笠の間から少し
顔を覗かせ哀愁漂う音色に合わせて、静かに踊り
練り歩く姿は、とても美しく見る者皆
おわらの世界に引き込まれます。
まさしく幻想的で優美な世界。
その地域の人々の行事として古くから行われ、
あまり観光客向けに派手派手しい趣向に
変化していないところが、
また風情を感じ、秋の夜に相応しく感じられます。
9月1日 長月(ながつき)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日から9月となりました。
9月を長月ともいい、
夜が長くなるから、夜長月が縮まって長月と
なったという説があるように
秋の夜長、月を眺め楽しむには最適の
季節が訪れました。
茶の湯の世界では
5月1日にご紹介しました通り、
風炉の灰形が変化する時です。
初風炉の季節に真だった灰形が盛夏に行の灰形となって、
今月から10月までが草となり
流線型の、すっきりとした灰形に形をかえます。
夏を彩ってきた草花も徐々に終わりを告げて行く頃
薄や吾亦紅(われもこう)、薊(あざみ)など
秋風を感じる草花がいっそう床の間に映えます。