11月 16日(月)空也と茶筅

2015-11-16 UP

11月 16日(月)空也と茶筅

ご機嫌よろしゅうございます。

三日前の11月13日は空也忌でした。
空也上人は平安時代、諸国を遍歴して踊りながら
念仏を唱えることで庶民に念仏を勧めました。
「寺を出る日を命日とせよ」と遺言したため、
寺を出たこの日が命日になっています。

さてこの空也上人は、当時流行した疫病を
退散させるおまじないとして柳の木を削り
削り花をつくりました。
これが茶筅の原型と言われています。
そして京都の空也堂の僧が、
青竹茶筅を作り、竹の竿にその茶筅を
藁にさしたものをつけて肩に担いで売り歩く
「茶筅売り」という年末の風物がありました。
この茶筅で正月にお茶を点てていただくのが
「大福茶」とよばれるもので、無病息災の
御利益があるといわれました。
この大福茶についてはまた来月ご紹介します。

11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-11-13 UP

11月 13日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記(1) 下り」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公の旅日記「道の記 下り」をご紹介
します。
将軍の特別なお召しがあって、
寛永十九年(1642)京都から江戸に向か
います。この際遠州公は旅日記を綴っています。

六月にご紹介しました上りの日記から
二十一年の歳月が流れています。
五十歳位が寿命であった当時にあって
六十四歳という高齢での長旅はさぞかし
体に応えたであろうかと思われます。
更に「上り」では十三日かけて旅した道のり
をこの「下り」では十日で進む急ぎの旅でした。

文中には「上り」同様、和歌や狂歌など交えて
その日通過した場所について、想いとともに
したためていますが、その所々に「伊勢物語」
や「土佐日記」の影響が感じられます。

11月 11日(水)遠州流茶道の点法

2015-11-11 UP

11月 11日(水)遠州流茶道の点法
「茶事について」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日から茶の湯の正式な形である茶事について
お話ししていきたいと思います。

茶の湯は禅院寺院で行われていたしきたり、
風習が入っているもので、それは通常の点法の
中にも様々な所作に見受けられます。
そして禅宗でもお客様をもてなす方法として
お茶を点ててしばらく休んでお食事を
お出ししたり、逆にお食事をお出ししてから
お茶を差し上げるといった形式があります。
そのような禅院のおもてなしの心が茶の湯に
結びついてお茶事という形になっていきました。

そのうちのお茶を点てる部分、お点法を日々の
お稽古で行っているわけで、つまり普段お稽古
している点法は、この茶事の一部分を切り取って
いることになります。
そういったことからも茶の湯の醍醐味は
お茶事ということになります。

季節や時の流れ、また人生の節目に際して行われる
様々な意味合いの茶事があり、
また相伴するお客様によっても
どれ一つ同じく茶事というものはなく、毎回毎回
違った形になるものです。

11月 9日(月) 茶の湯と足袋

2015-11-9 UP

11月 9日(月) 茶の湯と足袋

ご機嫌よろしゅうございます。

明後日11月11日は靴下の日なのだとか。
これは日本靴下協会が1993年に制定しており、
わりと新しい記念日です。
靴下を2足並べた時の形が11 11に見えること
から考えられたそうです。

さて茶の湯では白い靴下を履くのは、着物で
足袋をはくのと同様の考え方からで、
素足は失礼と習います。

しかし、昔は風炉の時期は素足、炉の時期は
足袋を履いていたようです。
その足袋も天正時代位には木綿の白足袋が
必需品として挙げられますが、常用されていたのは
革足袋でした。
江戸時代にはそれまで主流だった革足袋が廃れていきます。

また明治時代には紺の足袋といえば、
書生の代名詞にも挙げられ、汚れの目立たない
紺足袋は、男性の日常品でしたが、
千宗旦の時代にも既に存在して、
「コンノ足袋茶湯ニハキテモヨシ」と、
侘び茶人には茶湯へ履いていくのが
許されていたようです。

11月 4日 (水)遠州流茶道の点法

2015-11-4 UP

11月 4日 (水)遠州流茶道の点法
「茶壺について」

ご機嫌よろしゅうございます。

11月を迎え、茶壺に入った抹茶を取り出す
口切の季節となりました。
通常のお点法から少し離れて、
今日はこの口切で使用する茶壺についての
お話をしたいと思います。

口切の茶事で、躙り口に茶壺が置かれた場合、
その茶壺を床の間に持って行って飾っておきます。
そしてお茶壺拝見となった際には水屋で茶壺に
掛けられた紐を外し、茶壺だけを持っていって
皆さんにまわします。
この際、お客は手の熱が中に伝わらないよう、
掌を茶壺につけないように、指を広げて持つ
ようにします。
また遠州流茶道では、お客様の前で茶壺の封は
開けないということは昨年お話しました。

茶壺は古くから茶道具の第一として大変重要視され
ましたが、徐々に茶入にその座を奪われていきます。
壺飾りをしたのも利休の頃くらいまでで、
遠州公も初めの口切の時だけ壺を飾ったようで、
その他に壺に触れる茶会記は見つかりません。

また本来茶壺は、茶葉を保存しておくために
使用されるものなので、壺の中に空気が通る
ように釉薬がかかっていないものを使用します。
そのため呂宋、信楽、丹波などのようなものが使われ、
仁清などのように釉薬がかかり絵付けされたものは
飾りとしての茶壺ということになります

11月 2日(月)口切の文

2015-11-2 UP

11月 2日(月)口切の文

ご機嫌よろしゅうございます。

11月に入り、炉を開く季節になりました。
また茶壺の封を切る口切の季節でもあります。

古くは霜が降りてから、落葉樹の葉の色づき加減を
みるなどして炉を開くなど、その時々の四季の
変化に応じて茶の湯も行われていました。

古田織部も自邸の柏の木の葉が色づくころ
炉を開いたと言われています。
遠州公もまた同じく、自然の変化に応じて
いたようで、こんな文が残っています。

壺の口切めでたく存候
茶すぐれ申候  竹の花入出来候而
気相もよく候之由様可為本望
委曲久左衛門可申候                        恐惶

九月二十五日              遠州花押

くれ竹のま垣の秋の色に香に
はやここちよしちよの白菊

9月25日付の文には、既に口切を済ませ、
お茶の具合もよく、また自作の花入も満足な
ものができたと喜んでいます。
9月には既に寒さが早くやってきたのでしょう。
先人の茶の湯は現在のそれとは異なり、
自然とともに流れ、変化に応じていく
ゆるやかで豊かな心が感じられます。

10月 30日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-10-30 UP

10月 30日(金)遠州公所縁の地を巡って
「擁翠亭(ようすいてい)」

ご機嫌よろしゅうございます。

昨年の2014年は古田織部の400回忌にあたり
あるコレクターの思いがこもった、私設美術館が
北区鷹峯に誕生しました。
この美術館の建物は、昭和初期に建てられた生糸商人
の山荘にある土蔵を改装していて、茶室をイメージした
作りとなっています。

その敷地内には遠州公所縁の茶室
「擁翠亭」があります。

室町将軍足利義満の管領細川満元が築いた岩栖院を
家康が南禅寺に移し、刀装の彫金師後藤長乗に
与えました。長乗とその子後藤覚乗は、加賀藩主前田利常や、
小堀遠州の助力で「擁翠園」を造営します。
ここに作られたのが「擁翠亭」とよばれる小間の茶室で

この茶室は江戸中期に洛西の清蓮院に移築された後、
明治に同寺院が廃寺となって、解体されました。
その材料は保管されていましたが、長い間忘れられており
平成になって図面と供に見いだされて、
太閤山荘内に移築されました。
この擁翠亭は部屋が七つあり、窓の数も多くて十三あることから
別名を「十三窓席」といい、日本一窓の多い茶室と言われています。

先日この茶室でお家元の茶会が行われました。

10月 28日(水) 遠州流茶道の点法

2015-10-28 UP

10月 28日(水) 遠州流茶道の点法
「無盆唐物点(むぼんからものだて)」

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州流茶道では名物の茶入でも肩衝のものは
盆にのせて点法しないことはご紹介しました。
その唐物の点法についてご紹介します。
まず漢作と唐物という語について事典を見てみましょう。

漢作
中国産茶入のうち年代古く上作な類をいい、
単なる唐物と分けている。
いずれも古来重宝され大名物に属している。

唐物
中国茶入の総称
唐物を初代藤四郎が中国から土と薬を持ち帰り焼いたもの
と『古今名物類聚』では定義するが、
その分別は判然としない。…
漢作は宋代を中心とする中国産で、唐物もやや時代は
下るが中国産との見解が強い。…
「角川茶道大辞典」

「漢作唐物」と「唐物」の分類は曖昧で、
その分類は伝来に依っています。

遠州流では無盆唐物と点いう点法があります。
盆を使用しない肩衝の唐物点の際は、
その格調にあった格の高い道具組がされます。

これまでご紹介した天目、相伴付がこの点法に加わると
台天目(袋天目)無盆唐物相伴付
という非常に長くて難しそうなお点法になります。

10月26日(月)村雨(むらさめ)

2015-10-26 UP

10月26日(月)村雨(むらさめ)

村雨の 露もまだひぬ 槇(まき)の葉に

霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

寂蓮法師

ご機嫌よろしゅうございます。
秋の過ごしやすい気候では、時々にわか雨が
降ることがあります。この秋の突然の雨を
村雨や時雨といったりします。
雨の多い日本ならではの表現です。

さて、先ほどの歌はにわか雨が過ぎた後、
まだ乾ききらない槇の葉のあたりに
霧が立ち上っている、
秋の夕暮れの景色を歌っています。
静かな、そして寂しさの感じられる秋の夕暮れの
光景がとても趣深く、日本画のような描写です。

この歌を銘とする茶入が、
瀬戸金華山玉柏手の「村雨」で、
下から上に霧が立ち昇るような景色があるところから
遠州公が命銘したものです。
胴が締まった玉柏手で形状は本歌に酷似しています。
胴の中程がややくびれた筒形は、
唐物にはない瀬戸独自の形です。

10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って

2015-10-23 UP

10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って
「遠州公と宇治」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は茶の湯にとってかかせない抹茶の生産地
宇治と上林家についてご紹介します。

遠州公は、元和元年(1615)、大阪の陣の後
上方郡代として、また元和九年には伏見奉行として
宇治の地に密接な関わりを持っていました。

また遠州公は御茶吟味役としても、宇治に重要な
関係がありました。
遠州公が、今年お勧めの御茶を試飲して
選ぶと、そのお茶は「将軍お好み」として、
将軍の近臣や大名からの注文が殺到します。

宇治には昔から多くの茶師がいましたが、
優れた技術力を持って上林家が台頭し、また
家康との関係からも上林家は重要視され、
江戸時代には宇治代官となります。
伏見奉行である遠州公はこの隣接する宇治代官
も監察の対象でした。

政治的にも、また茶の湯の面でも宇治に密接な
関わりを持っていた遠州公の茶会には
上林一族をはじめ、多くの宇治茶師や畿内の
政治・経済・文化的中心人物が登場しています。