藤堂高虎

2013-10-5 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日10月5日は達磨忌です。
達磨忌とは、達磨大師を偲ぶ日であります。
さらに遠州流にとってはもう一人、重要な人物の死を悼む日でもあります。

寛永7年10月5日は藤堂高虎の命日です。

藤堂高虎は、遠州の正室の父、つまり義理の父親です。
ただ、それよりも前、遠州の父・新介正次の頃から関係は深くありました。
正次も、高虎も似たような生涯を送っており、特にターニングポイントが重なっていることは、二人を結びつける重要な出来事でした。

もとは、両者とも磯野員昌に仕えており、その後、豊臣秀長の家臣となります。
秀長が没すると、嗣子秀保に仕え、秀保も没すると秀吉に仕えます。
そして秀吉が亡くなると、今度は家康の下へ。
関ヶ原の戦後、その活躍により、新介正次は備中国松山城を預かり、高虎は伊予国今治城主を預かり、大名となりました。
高虎は武将としての名も高く、慶長の役では朝鮮水軍を破る武勲も持ちます。
また、秀保が没した際に、一度出家し、高野山に入りましたが、秀吉の招きにより、還俗した過去もあります(ちなみに正次は二度還俗)。

高虎も正次も、次なる世には茶の湯が重要な位置を占めることを感知していました。
それは織部との交遊や、松屋会記、特に高虎は『藤堂伊賀』という独自の陶器を作成するなど、様々な面から見て取れます。
また、小堀遠州という人物がこの世に誕生したことは、この二人の戦国時代を走り抜けた鋭い先見の眼が無ければ成しえなかったことです。

晩年は失明したようですが、生涯茶の湯を愛好し、自会を催したり、家康・秀忠の茶会に参会したりしました。
また、徳川幕府と公家の仲を取り持った人物でもあり、寛永2年9月22日の遠州の茶会には、近衛応山、藤堂高虎、三宅亡羊の三者が揃っており、茶の湯により、心を通い合わせていたようです。

東海道旅日記 上り

2013-10-4 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

元和7年9月22日に江戸を出発した遠州一行は、10月4日にようやく京都に到着しました。
なので本日はこの旅を記した『東海道旅日記 上り』についてお話します。

旅の行程は12泊13日、500キロ。
1日の行程が約9里半(38キロ)、1里1時間と考えて、1日に9時間半ほど歩き続ける、と
いうことで、現代人にとってはかなりの強行軍のように感じられます。
しかし、その旅程を遠州自身が記した『東海道旅日記 上り』には、道中に難所がいくつか登場しますが、様々な人の手を借りて解決し、さらに和歌あり、詩ありと、とても楽しそうに日記は綴られています。
当時の遠州の人間関係を知るうえでとても貴重な資料なのです。

この日記の書かれた元和7年、43歳の遠州は城主のいなくなった丹波福知山の政務沙汰をする他は特別なことはなく、晴れやかな気持ちで旅ができたのではないでしょうか。

その後、この旅日記は、各大名からの書院飾りの一巻としても所望もあったようで、遠州の嫡子大膳宗慶、次男権十郎篷雪、三男十左衛門政貴などそれぞれが、書写しました。

水始涸(みずはじめてかる)

2013-10-3 UP

皆様ご機嫌よろしゅうございます。

本日から72侯が「水始涸(みずはじめてかる)」となります。
この言葉は、文字通り水が干上がってしまうことを指しているわけではありません。
稲穂根づく田から水が減り、収穫の時期になった、ということを意味しています。

実った稲が垂れ下がると、だんだんと黄色く色づきはじめます。
8割ほど色が変化したところで水を土が湿らす程度まで減らし、稲を刈り取るのです。
刈り取った稲は、茎の部分で結束し、逆さまにして乾燥させます。
そして脱穀し、皆様の食卓へ運ばれるのです。

オレンジ色の夕陽をたっぷりとその身に受けた稲穂は黄金色に輝きます。
走り去る風によって、波打つその姿はとても美しいものです。

潮音堂

2013-10-2 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は『潮音堂』の掛物についてお話致します。

寛永8年(1631)10月2日の茶会記に、「掛物 無準」とあります。
「無準」とは「ぶじゅん」と読み、中国の高僧無準師範のことで、遠州の茶会記の場合、『潮音堂』の墨跡のことを指します。
『潮音堂』は、博多の承天寺が創建した際に、無準師範ものとに留学した聖二国師が頂戴したお祝いの寺額です。
後に、京都・東福寺普門院修理のための費用として処分した際に、遠州の手に入ったと言われています。

潮音堂にはこんなエピソードがあります。
出羽国庄内藩主であった酒井忠勝が、ある時遠州の茶会に招かれました。
その時に、忠勝公は潮音堂の額を遠州に懇望するのです。
それに対して遠州は「一字千両」と答えました。
すると忠勝公はすぐに三千両を用意し、持ち帰ったそうです。

ちなみにこの時に、有名な『生野茶入』もしようされておりますが、この話はまたいずれ。

江月宗玩

2013-10-1 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日から神無月。
全国の神様が出雲へ集合する月です。
そのため、出雲だけは神有月と言われることはよく知られていることです。

遡ること370年、寛永20年(1643)10月1日は、江月宗玩が没した日でもあります。

江月宗玩は遠州より5歳年上で、天正2年(1574)に堺の豪商天王寺屋津田宗及の子として生まれ、春屋禅師のもとで頭角を表し、黒田長政の請に応じて大徳寺に龍光院を創設しました。
茶は遠州に学び、松花堂昭乗とは昵懇の間柄で、この両者との茶の湯の交渉はとても深いものでありました。

遠州との関わりで特筆すべきはやはり孤篷庵創建のことです。
現在の孤篷庵とは規模も性格も異なる最初の孤篷庵は、慶長17年(1612)、遠州34歳の秋に建てられました。
江月が遠州に建てるように勧め、黒田長政が援助をし、広大な龍光院の一角がその敷地となりました。
ちなみに黒田長政は遠州の11歳年上で、筑前福岡に52万石もの領地をもつ大名であり、弟子である速水頓斎を茶頭として黒田家に送るなど、茶の湯を通して深い関わりがありました。
遠州の生涯に大きな影響を与えたこの二人を結びつけたのが、春屋宗園禅師でした。
おそらく春屋禅師が、再三にわたり、遠州にも江月にも、また長政にも孤篷庵建立について話していたのではないだろうか、と推測できます。
慶長16年に春屋禅師は入寂します。
そして、その意志を実現すべく、三人は協力し、完成に至ることとなったのです。

孤篷庵の開山となった江月が住した龍光院には、曜変天目、鶴首茶入、丸壺茶入など、多くの名宝も伝来しております。
江月宗玩の茶の湯に対する愛好の深さが見て取れます。

三河国八つ橋

2013-9-30 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

元和7年(1621)9月22日に江戸を出発し、旅を続ける遠州一行。
9月30日には愛知県の岡崎に到着し、岡崎城主本田康紀の歓待を受けました。

その後、三河国八つ橋へ。
ここに遠州はひとつの楽しみを持っておりました。
それは旅前に、遠州が熟読していた『伊勢物語』に、八つ橋で在原業平が杜若(かきつばた)の歌を詠む場面があったのです。
「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」
先頭の文字を取ると、「か き つ ば た」となり、業平もさらに文章で「いと面白く咲きたり」と記述しておりました。
しかし、遠州がいざ来てみるとあまり咲いていなかったようで、
「昔より いひしきにける ことなれど われらはいかが 今は定めむ」
と狂歌を読んでいます。
もちろん、5月頃に咲く杜若が、この時期に咲かないことを知っていたと思われますが、それでも残念であったということを遠州は狂歌で表しました。

ちなみに『伊勢物語』の八つ橋は現在では正確な位置は分かっておらず、幻の地とされています。

蟄虫培戸

2013-9-28 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日から72侯が「蟄虫培戸(むしかくれて戸を塞ぐ)」となります。
いよいよ、虫たちが冬支度を始める季節となりました。
土の中に籠ったり、蛹になったりと、それぞれの越冬準備が景色の中に溶け込んでいくでしょう。
姿を消した虫たちは春の「蟄虫啓戸(けいちゅうとをひらく)」まで眠ることになります。

ちなみに、そんな虫たちは葉の裏に繭や卵を作ったり、樹の幹に潜りこんだりと、人間にとっては害虫としてとらえられており、その対策として、「松の菰(こも)巻き」があります。
菰とは、松に巻いてある藁で編んだむしろのことです。
秋の雰囲気が増し、寒くなった虫たちは暖を取ろうと、枝から降りてきて菰に入ります。
そして、春の啓蟄の前に、外された菰ごと、焼かれてしまうのです。
今でも春の風物詩として、「松の菰焼」は残っています。

都会でも、公園などで松の冬の衣装を見ることができるでしょう。

彼岸明け

2013-9-27 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
昨日でお彼岸が明けました。
遠州流の点法では、秋のお彼岸を過ぎると、ささやかな変化をする箇所があります。
薄茶点法の、茶器の中の茶を汲む位置が変わるのです。
今までは山の向こう側を汲んでいたかと思いますが、これからは山の手前側を汲むことになります。
流派によっては年間を通して同じ位置で茶を汲むこともありますが、遠州流では季節の移り変わりを大切にし、点法も同じく変化をします。
春のお彼岸が過ぎると、今度は山の向こう側を汲むようになります。

来週から10月のお稽古が始まります。
冷たい秋風が吹く季節となってきましたので、ご自愛下さいませ。
どうぞ宜しくお願い致します。

小堀遠州の茶会

2013-9-26 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
寛永5年9月26日(1628年10月30日)、遠州は茶会を開いておりました。 客は4人。 菅原織部、二村宗林、徳庵、道志。 特に菅沼定芳が御正客として座していることに着目したいと思います。 ちなみに詰客の道志は「いじいじ塗り」の名手として知られ、遠州に認められた後、将軍家茶碗御用の命を受けるようになり、京都の茶道具頭的な地位を占めるほどになった人物で、遠州の茶会には記録に残る限りでも30回も招かれています。 菅沼定芳は、近江国(滋賀県)の膳所城主で3万1100石を領していました。 遠州の茶会には3度参会。 茶の湯を好んでいたようで、定芳が膳所城主だった頃に、膳所焼は遠州の指導を受けており、それに関する書状も残っています。 この時の茶会記を見ると、遠州は膳所焼の茶碗を使用。 ここに遠州の膳所城主菅原定芳に対するおもてなしの心を見て取ることができます。 旧暦の9月26日は、新暦の10月31日にあたり、床には藤原定家の『初雪ノ歌』が掛かっていました。

皆で雪の風情を楽しんでいたのではないでしょうか。

お彼岸

2013-9-25 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

明日の26日でお彼岸が明けます。
昼夜の時間が同じになるこの時期は、この世とあの世が繋がりやすいとされ、ご先祖様にお供えしたり、お墓掃除をしたりする期間として、又は季節の変わり目として、古来から重要視されてきました。
ちょうどこの時期に彼岸花が咲きはじめます。
道端にも突然生えていることも多く、目にしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

彼岸花はとても変わった成長をします。
まず一夜にして地上へ茎が突出、すぐさま花が咲き、終わる頃に、やっと葉が出てきます。
普通の草花とは逆の順序をもって、成長するのです。
そのため、「イチヤニョロリ」、「ハヌケグサ」、「ハミズハナミズ(葉見ズ花見ズ)」、「ステゴバナ」といった別名が無数にあります。
また、この花は有毒成分も持っており、昔の人が口にしてしまった体験から「シタコヂケ」、「シタマガリ」、「シビレバナ」など、摘んではいけない、という注意を喚起する名も多く付けられています。

しかし、毒を持ってはいますが、田畑や畦道には多く植えられ、飢饉の際の救荒植物として大切に育てられていました。
水に晒し、毒を消した後に食していたようで、そのためにみだりに子供たちに荒らされないように、上記の危険な名を付けたとも考えられます。

宗家道場の近くにある若宮神社の辺りにも、今月の初めに一夜にしてニョロリとその身を現し、深紅の六辺の花弁を美しく咲かせていました。