12月18日(金)遠州公の墓

2015-12-18 UP

12月18日(金)遠州公の墓

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。

正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。

遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。

京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。

10月2日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-10-2 UP

10月2日(金)遠州公所縁の地を巡って
「伊庭(いば)茶屋屋敷」

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公は水口城の他、現在の滋賀県東近江市伊庭町に
伊庭茶屋を作っています。

関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603)江戸幕府が開かれます。
依然として豊臣方の力が残存していたため、
将軍が江戸から上洛する際には
堅固な御茶屋風の宿泊所・護衛上の濠や土塁をめぐらした
城郭風の宿館が必要でした。
遠州公は命を受け、家光上洛の宿として
「伊庭御殿」を造営しました。
近年この地は現在「御殿地」と呼ばれていますが、
近くには民家もなく鬱蒼とした森になっていて
滅多に人が近づかない場所でした。
しかし、調査が進み「伊庭御茶屋御指図」(中井家所蔵)
と現況地形の一致から遠州公作と証明されました。

伊庭御殿は台所施設が広く取られている等の特徴があり、
将軍の休憩施設としての特徴を備えていました。
また他の茶屋のつくりは方形を基調としていますが
伊庭御殿は横に細長い不定形である点が特徴的です。

家光より後は、将軍上洛の必要がなくなったため、
御茶屋御殿は廃止されていきます。

現在、遺構としては、石垣の一部と井戸跡を
見ることができます。