遠州公の白

2014-8-29 UP

8月 29日  遠州公の白

ご機嫌よろしゅうございます。

8月8日に、遠州公が抹茶の製法を
「白茶」に戻したお話をいたしました。

そして織部の緑
これには茶人の好みが反映されています。

それぞれの茶人の好みをシンプルに色で表すとするなら
利休の「黒」
織部の「緑」
遠州の「白」
とお家元は表現しています。

全てを包有する、他の存在を許さない「黒」
己の感性を先鋭に表した「緑」
「黒」も「緑」をも受け入れることのできる「白」

利休、織部の茶は己の精神.主観性を追求するもの。
それに対して
遠州はその日のお客様に合わせて
その好み・趣向を考え、道具の取り合わせを自在に
変えるなど相手の心を映した茶でした。

オリンピック招致で話題となった
「おもてなし」の日本の心ですが、
茶の心、とりわけ
この遠州公の「白」の好みが生きているような気がいたします。

2014-8-8 UP

8月8日 遠州公と抹茶

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はお抹茶のお話を。

抹茶の銘には「~の昔」「~の白」という名前が
よくつけられているのをご存知でしょうか?

遠州公の師匠である古田織部は、
抹茶の色をヨモギ餅の緑色(青)を見てより鮮やかな色にしようと
抹茶を作る際、茶葉を少し茹でることにしました。
これを「青茶」などと呼びます。

こうすることで見た目は綺麗な緑になるのですが、
香りがなくなり味が多少落ちてしまいます。

そこで遠州公は茹でない以前の製法に戻しました。
この製法で出来た抹茶は「青茶」に比べて白っぽいため
「白茶」と呼ばれました。

現在抹茶として製造されているものはこの「白茶」で
昔の製法に戻ったことから「~の昔」「~の白」
という銘がつけられることが多いというわけです

明智光秀(あけちみつひで)

2014-8-3 UP

8月3日 明智光秀(あけちみつひで)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は日曜となりましたので
官兵衛の時代のお話しを。

主君信長に反逆する裏切り者としての
一面が目立つ光秀ですが、文武両道で
和歌・茶道の嗜みも深い文化人でした。

天正十年(1582)
6月に本能寺の変の起こる年ですが、
この年の正月7日の朝、
光秀は山上宗二と津田宗及を招き、
茶会を開いています。

床の間には信長直筆の掛物
通常床の間に掛ける掛物は墨跡や唐絵、古歌など
を掛けることが一般的でした。

主君の筆による掛物を飾り、恩恵に感謝していた
ように感じられます。
この数ヶ月後、その主君を討つことになるとは
当時の光秀は思いもよらなかったのではないでしょうか。

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瓢箪(ひょうたん)

2014-7-9 UP

7月 9日 瓢箪(ひょうたん)

ご機嫌よろしゅうございます。

夏になると瓢箪がその実をつけ、愛嬌ある姿を見せてくれます。

瓢箪はユウガオの変種とされ
「ひさご」とも「ふくべ」とも呼ばれ、
初夏に白い花を咲かせ、実は昔から器などにして親しまれてきました。
縦に割り、水をすくったりもされたことから
柄杓も「ひさぐ」→「ひしゃく」となり
「ひさご」から由来する言葉ともいわれています。

4月 18日にご紹介しました、遠州公の好む形としても
代表的なもので、禅の教えに通づるものがあります。

小堀家歴代の印にも瓢箪の形が用いられているのも
この教えに由来するものと考えられます。

この瓢箪という字、実は「瓢」と「箪」別々のものであることを
ご存知でしょうか?

「箪」は竹で編んだ入れ物で、これにご飯を入れ器として使う
ものでした。
「瓢」には飲み物を。これがいつしか一つになり、
瓢箪という名称になったと考えられます。
「一瓢の飲 一箪の食」という言葉もあります。

宗中公命日

2014-6-24 UP

6月 24日 宗中公命日

ご機嫌よろしゅうございます。
今日6月24日は小堀家8世 小堀宗中公の命日です。

天明6年(1786)小堀大膳亮政寿(まさひさ)の嫡子として
近江の小室に生まれました。
小室領地が没収されてからは、京都孤篷庵で育ちます。

この頃の日本は大飢饉が起こり、世の中が疲弊し乱れはじめます。
田沼時代から松平定信が政治の実権を握る時代。

40年という長い間、浪人としての生活が続きますが
要職を歴任し譜代大名並の格式を許された五世政峯宗香公の功績
と遠州公以来の家柄を評価され、
文政11年(1828)に幕臣として召しだされます。

改易の時に親類に引き取られていた、
遠州以来の諸道具も戻され「遠州蔵帳」のほとんどが伝来します。
茶法は父、政寿や小堀家茶道頭の富岡友喜から学び、
多くの弟子を排出します。

尾張徳川家に招かれ御蔵器財の分類、目利き、整理なども行っています。
また、茶道を通じて狩野派など芸術分野の人との交流も多く、
合作で各種の作品を残しています。
慶応三年6月24日、82才で江戸屋敷で亡くなります。

遠州流中興の祖です。

あじさい

2014-6-12 UP

6月 12日 あじさい

ご機嫌よろしゅうございます。

雨の雫を葉にのせて、しっとりと濡れるあじさいの姿
梅雨時ならではの美しい風景です。

中国では紫陽花
日本では集真藍(あづさあい)、四ひらの花
と表しました。

現在のあじさいとは異なった、古くから日本に自生していた種は
「今井宗久茶の湯抜書」の天正17年に「アヂサイ」
とあります。

寛政元年五月、遠州公が品川林中の茶亭で、
三代将軍家光公に献茶をした際、
家光公が遠州公作の竹の二重切花入に
「アジサイ三リン」を入れた記録も残っています。

ただ使用例としては少ないといえます。
夏の茶会自体がそもそも少ないということも
一因としてあるようですが、
その色彩的、形状的理由あるいは入手のしやすさなどから
茶席に用いられることが少なかったようです。

遠州公時代の三河の名所

2014-5-23 UP

5月23日 遠州公時代の三河の名所

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は伊勢物語に出てきた三河の八つ橋について
遠州公が歌った和歌をご紹介します。

遠州公が元和七年(1622)43歳のときに
江戸から京都へ上った際の日記があります。

八つ橋というところに着いた。
燕子花の名所ということなので
さぞかしたくさん咲いているのだろうと思って
いたけれども、全く咲いていなかった。

やつはしに はるばるときてみかはなる
花には事をかきつばたかな

と言ったらお供のものが大変おもしろがった
とかかれています。
「花に事欠く」と「かきつばた」をかけたのですね。

平安時代、燕子花の名所であった三河は
遠州公の時代には名所がどこであったか
その場所もわからなくなっていたようです。

耳付

2014-4-11 UP

4月11日  耳付(みみつき)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公のお好みになられた形の一つ
「耳付」をご紹介します。

遠州公以前にも見られた意匠ですが、
遠州公は上の方に小さなアクセントのように
耳をつけた瀟洒な形を好みました。

茶入の小さな耳、笹葉をした耳、遠州茶道宗家の紋である七宝形、
弦(つる)耳、
花入や水指の管耳、福耳、釜の笛耳など、いずれも
優雅な意匠をたたえています。

耳付きの茶入には
丹波「生埜(いくの)」「立花」
膳所の「大江」、薩摩の「甫十」「甫五」
など優れた作品が多く残ります。

満れば欠くる

2014-3-17 UP

3月17日 「満つれば欠くる」

ご機嫌よろしゅうございます。
今夜は満月です。

遠州公の美意識を表す言葉に
「満つれば欠くる」
というものがります。

完全なものよりも
ほんの少し足りない
これから満ちていくものに
美しさや、生命力を見出す
不足の美です。

この美意識は遠州流の教えの
至るところに込められています。

一例を挙げれば

お点法で道具を清める際に使う袱紗という布。
遠州流ではその寸法を

矩尺(かねじゃく)

縦九寸五分

横九寸として
二つ折りにして捌くとき、
敢えてピッタリ重ならないようになっています。

また遠州公の好みである「前押(まえおせ)」という茶碗の形
これは真ん丸く作った茶碗の正面を
敢えてわずかにへこませてあります。

これから満ちていくその力、その美しさ
それが「満つれば欠くる」の美意識です。

【告知】
第27回公開討論会を開催致します。

日時:平成26年3月23日(日) 午後1時~4時
会費:お一人様2,500円
テーマは『懐石と菓子』
申込方法 電話(03-3260-3551)にて受付
郵便振替:00190-5-770872 財団法人小堀遠州顕彰会

一休宗純

2013-11-21 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は、「一休さん」という愛称で有名な一休宗純の命日です。

 

≪人物:一休宗純≫

侘び茶の祖・村田珠光の師とされ、また破格奔放で知られた一休は、茶人の間で大変尊敬されています。

現在、「一休寺」の愛称で知られている酬恩庵ですが、もとは南浦紹明が創建したあと荒廃したままであったのを、一休が宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩に報いるという意味で「酬恩庵」と命名しました。

一休は応永元年(1394)に生まれ、それまでの戒律に縛られない風狂な生き方で天皇や民衆から愛され、晩年を酬恩庵で過ごし、文明13年(1481) 88歳で没しました。

出自は後小松天皇の御落胤とされており、現在、酬恩庵に置かれる一休の墓は宮内庁の管轄となっているため一般の立ち入りは禁止されています。

遠州の茶会にも、一休の墨蹟は茶会で度々掛けられており、そこに尊敬の念が見て取れます。

そして、酬恩庵の境内に黙々寺を建立し、晩年を過ごしたのが、遠州の親友であった佐川田喜六でありました。

豪胆な武人として知られ、関ヶ原の戦のあとには、石田方でありながらも徳川家康の重臣・永井直勝に招かれ、家臣に加えられました。

遠州と同い年で、遠州に茶の湯を学んだ佐川田喜六は風流人としても知られており、共通の友人である松花堂昭乗と共に交流を深めました。

佐川田喜六は寛永20年(1643) 8月3日に、黙々寺で没します。

酬恩庵を起点にすることによって、様々な繋がりを見て取ることができます。