本阿弥光悦

2013-11-11

皆様ご機嫌よろしゅうございます。

本日も引き続き、京都では光悦会茶会が催されています。

この名も、有名な本阿弥光悦から取られたものであり、彼も遠州にとって近しい人物でありました。

 

≪人物:本阿弥光悦≫

寛永14年(1637) 2月3日、本阿弥光悦は80歳で没しました。

その訃報を受けた遠州は、お悔やみの書状を書き、光悦の養嗣子の光瑳に宛てて送りました。

遠州と光悦の関係の中で、最もよく知られている事柄は「膳所光悦」の茶碗誕生の一件です。

寛永13年(1636) 5月21日に、品川林中の御茶屋に将軍家光をお迎えして献茶された際に、その控えの茶碗として用いられたのが、光悦に依頼して作製された、膳所光悦の茶碗でありました。

この大事なお茶会に遠州が光悦を選んだことは、当時光悦を最も優れた芸術家として、またその人間性をも含めて尊敬していたからに他ならないと言えます。

また光悦自身も、遠州が指導した膳所窯の性質を認めたことからこの茶碗が完成しました。

したがって、遠州と光悦の、心と心の通いあいの結晶が、膳所光悦の茶碗となったといえます。

近衛信尋

2013-10-11

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

遠州の交友はとにかく広い。

将軍や大名だけでなく、商人や医者などの町人たちとも交流があった。

そしてさらには公家、なかでも寛永のルネサンスのリーダーの一人、近衛信尋と懇意にしていた。

慶安2年10月11日は、近衛信尋の命日である。

信尋の父、信伊は寛永の三筆(他は本阿弥光悦・松花堂昭乗)の一人に数えられ、薩摩に流されたりと、波乱に富んだ一生を送っているが、豪放な書風で知られている。

その養子信尋は、実は後水尾天皇の弟であり、二人の兄弟愛は、天皇と大臣という間柄を越えて信頼し合っていた。

もちろん、能筆家としての名も高かった。

こんな書状が残っている。

当時の公家の若君たちは、平和な世に浮かれ、暴れていて、幕府はそんな若君たちを、いつでも取り締まってやる、と眼を光らせていた。

その時も、大宴会が開かれ、それが幕府の知るところとなった。

21歳の信尋は、これが知られては大変と青ざめ、藤堂高虎に弁解の手紙を送っている。

その中で、遠州が登場する。

宴会の最中には、遠州が様子を見に来て、心を配って頂いた、という内容である。

遠州は公家と武家の仲が円滑にいくべく、行動していたのではないだろうか。

その他の信尋の書状にも遠州は登場し、また、遠州の茶会記にも信尋は登場する。

信尋と遠州が利休について会話したことも、『桜山一有筆記』に記録されている。

それはまたいずれ。