近衛信尋

2013-10-11

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

遠州の交友はとにかく広い。

将軍や大名だけでなく、商人や医者などの町人たちとも交流があった。

そしてさらには公家、なかでも寛永のルネサンスのリーダーの一人、近衛信尋と懇意にしていた。

慶安2年10月11日は、近衛信尋の命日である。

信尋の父、信伊は寛永の三筆(他は本阿弥光悦・松花堂昭乗)の一人に数えられ、薩摩に流されたりと、波乱に富んだ一生を送っているが、豪放な書風で知られている。

その養子信尋は、実は後水尾天皇の弟であり、二人の兄弟愛は、天皇と大臣という間柄を越えて信頼し合っていた。

もちろん、能筆家としての名も高かった。

こんな書状が残っている。

当時の公家の若君たちは、平和な世に浮かれ、暴れていて、幕府はそんな若君たちを、いつでも取り締まってやる、と眼を光らせていた。

その時も、大宴会が開かれ、それが幕府の知るところとなった。

21歳の信尋は、これが知られては大変と青ざめ、藤堂高虎に弁解の手紙を送っている。

その中で、遠州が登場する。

宴会の最中には、遠州が様子を見に来て、心を配って頂いた、という内容である。

遠州は公家と武家の仲が円滑にいくべく、行動していたのではないだろうか。

その他の信尋の書状にも遠州は登場し、また、遠州の茶会記にも信尋は登場する。

信尋と遠州が利休について会話したことも、『桜山一有筆記』に記録されている。

それはまたいずれ。