女御御殿

2015-5-22 UP

元和四年(1618)遠州公40歳の折、秀忠の末娘・和子の入内が決まり、遠州公はその女御御殿の作事奉行となります。この作事は、何人かの奉行の内の一人として一部分を割り当てられたのではなく、最も格式の高い常御殿や居住所などの重要部分を担当しており、遠州公の作事の技量が高く評価されての任命といえます。

元和六年(1620)に和子は入内し、後水尾天皇の女御となります。寛永四年(1627)には、幕府の政策に耐えかねた後水尾天皇が三十二歳で譲位を決意、寛永六年には譲位されます。

遠州公は天皇の譲位後の住まいとなる仙洞御所の作事と天皇譲位後東福門院となった和子の女院御所も奉行しています。またこの御所は建物が寛永七年に完成した後も庭は未完成で、この作庭に遠州公が任命され、寛永十年から十三年まで三年を費やしました。この時期遠州公は二条城の二の丸作事、水口城伊庭の御茶屋など、毎月作事奉行を仰せつかり四ヶ所も兼務するなど、多忙をきわめます。

現在、京都 大覚寺になる宸殿(重要文化財)は、女御御殿を移築したものと伝わっています。

所在地 京都府京都市右京区嵯峨大沢町4 大覚寺

近衛信尋

2013-10-11 UP

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

遠州の交友はとにかく広い。

将軍や大名だけでなく、商人や医者などの町人たちとも交流があった。

そしてさらには公家、なかでも寛永のルネサンスのリーダーの一人、近衛信尋と懇意にしていた。

慶安2年10月11日は、近衛信尋の命日である。

信尋の父、信伊は寛永の三筆(他は本阿弥光悦・松花堂昭乗)の一人に数えられ、薩摩に流されたりと、波乱に富んだ一生を送っているが、豪放な書風で知られている。

その養子信尋は、実は後水尾天皇の弟であり、二人の兄弟愛は、天皇と大臣という間柄を越えて信頼し合っていた。

もちろん、能筆家としての名も高かった。

こんな書状が残っている。

当時の公家の若君たちは、平和な世に浮かれ、暴れていて、幕府はそんな若君たちを、いつでも取り締まってやる、と眼を光らせていた。

その時も、大宴会が開かれ、それが幕府の知るところとなった。

21歳の信尋は、これが知られては大変と青ざめ、藤堂高虎に弁解の手紙を送っている。

その中で、遠州が登場する。

宴会の最中には、遠州が様子を見に来て、心を配って頂いた、という内容である。

遠州は公家と武家の仲が円滑にいくべく、行動していたのではないだろうか。

その他の信尋の書状にも遠州は登場し、また、遠州の茶会記にも信尋は登場する。

信尋と遠州が利休について会話したことも、『桜山一有筆記』に記録されている。

それはまたいずれ。