前田利常公

2013-10-12

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は加賀百万石を築いた前田利常公についてお話いたします。

 

≪人物エピソード4:前田利常≫

前田利常は遠州の14歳年下で、文禄2年(1593)11月25日に前田利家の四男として生まれた。

9歳で兄・利長の世嗣となり、徳川秀忠の二女珠姫を正室として迎えている。

そして兄が引退したため、13歳で家督を継ぎ、119万石を領した。

先日のメルマガでもお送りした通り、利常は茶の湯を大変好み、遠州とも懇意であった。

そのため遠州は道具の目利をしたり、墨蹟を表装したり様々な面で利常からの厚い信頼を得ていた。

また、利常の嫡男である光高も遠州に茶を習い、茶会にも参会している。

何よりも挙げておきたいのが、遠州、利常、千仙叟の関係である。

裏千家を興した仙叟は、千宗旦の四男として1622年に生まれた。

仙叟は加賀藩前田家に召し抱えられるのだが、その斡旋をした人物が、前田家の茶頭として仕えていた遠州の弟・佐馬助正春であった。

長いこと仕える先を探し続けていた仙叟であったが、31歳にしてようやく大藩に就職ができ、76歳の宗旦はそれを大変喜び、小堀佐馬助にも礼状を出したという。

これらのエピソードは『元伯宗旦文書』の中に記録され、裏千家創世と、また裏千家と遠州流とを繋ぐ重要な資料として今でも残っている。

 

 

本日10月12日は前田利常の命日である。

享年66であった。

数寄者とは

2013-10-9

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

今から34年前の月刊『遠州 10月号』の、先代紅心宗匠が『数寄者とは』、と題して、前田利常公と、小堀遠州の茶の湯問答のことについて書いています。

本日は「数寄者」について、少しひも解いてみたいと思います。

茶湯問答の書状は利常公が「茶湯根本は何と仕たる所を数寄者と申候哉」と、遠州に御尋ねしているとこから始まります。

それに対し、紅心宗匠は遠州が

「目に見、耳に聞き、事にあたる時、自我が実態として存在すると考えて、それにとらわれ、自己主張に溺れる人が多い。全てを知り、全てを忘れてしまい、それらの執着心を捨て去る事が出来たならば、真の数寄者という事ができるのであろう」

と答えている、と意訳しています。

そして後日、遠州は前田邸へ単身出向き、「放下着(ほうげじゃく)」の話を交えながら、茶湯根本について話をしました。

この「放下着」とは、何もかもを脱ぎ去った境地のことを言います。

この「着」は「~せよ」の命令形の助辞で、「放下せよ、全てを捨てよ」という意味であり、これこそが茶湯の根本のひとつであると遠州は利常公に返事をしたのです。

紅心宗匠は最後に、「真の数寄者となる事は誠に困難な事であるが、日々の修練に依り、一歩でも遠州の心に近づきたいものである」と記して、筆を置いている。