三河吉田三万石 松平忠利

2020-3-13 UP

さて遠州一行は境川にさしかかり、三河国へ入ります。 境川は三河国と遠江国の国境で、現在は、静岡県(湖西市)と愛知県(豊橋市)の境となっています。 この地三河吉田城主であり、親しい間柄であった松平忠利は遠州公より三歳年下で三河深溝で生まれました。 父・家忠は「家忠日記」とよばれる日記を残しており、当時の様子がうかがえる貴重な資料となっています。 伏見城の戦いで鳥居元忠と共に戦死。 父の弔いにと忠利は参陣を希望しますが、留め置かれたといいます。 関ヶ原の戦功により父祖の旧領三河深溝に1万石を、慶長17年(1612年)には三河吉田3万石に加増されました。

9月29日 訳文

2020-3-6 UP

29日 晴天 朝早く出発する。 風は新居の里ではないが、いまだ荒く吹き荒れる中里をでて、 夜の明けきらぬうちに白須賀の宿を通る。

 よをこむる 道の便の 竹の杖    

  行衛をとふにしらすかの里

ほのぼのと夜が明けていく。塩見坂をのぼり、谷を行くと細い河がある。 聞けばここから三河(みかわ)の国だという。 そこを行くと里があり、二河という。

 河は三河 里は二河 合すれば

  いつかはかへり つかむ故郷

ここから駕籠に乗りひと眠り、目が覚めて問えば すでに吉田の里に到着していた。 夢みながら はるばると長き道のりをきたことよと思って

 ゆめとても よしや吉田の さとならむ

覚てうつつも 憂き旅の道

と詠んでみる。 ここの城主は私が特に親しくしている方なので、 立ち寄りてお会いしたいと遣いをする。 あいにく京都へ出向いていて留守とのこと。残念。 そこを過ぎて豊川の橋を渡りこざか井というところに到着した。 関西の堺の津を知る人が、名前は同じだけれどもここはその名の通り、小堺であるよと戯れると、里の人がこれを聞いて、この里の端に小坂があることから小坂井なのだという。 そこを行き過ぎて、今度は五位の里に至る。 東海道中に数多くの里の名があるが、この里ほど位の高い里はないなあと言うと、またある人が五位鷺という鳥の名もありますななどと供のものが言っているのを聞いたりなどしているうちにあか坂の里に到着。 その次は長沢という里。(その里の名をいれて)

 雲晴て 日はあか坂の 里なれど

  旅の行衛の 道のながさは

  なお進んでいくと二むら山という場所に着いた。この山の中に法蔵寺という寺があり、立ち寄って拝見する。

 三かはなる ふたむら山を はこにして

中へいれたる ほうぞうじ哉

此の山をみてみると、青葉まじりの紅葉が風に吹きあらされる様子は、 まるで錦の布を切り取ったかのような美しさである。

  ふたむらの 山の秋風はげしさに

  紅葉のにしき 着てもこそ見れ

ここから藤川というところに到着して一泊。