永餅と藤堂高虎

2020-7-31 UP

三重県のお土産として、笹井屋の「なが餅」が有名です。
天文十九年(1550年)戦国時代の頃、彦兵衛氏が日永の里に因んでつくったのが始まりと言われています。
遠州公の養父である藤堂高虎公は、生涯に何度も主君を変え戦国を生き抜き、
後に大大名となりますが、この高虎公が足軽の頃、一文無しの空腹で、日永の里を通りかかりました。
高虎公は出世払いで「なが餅」を食べさせてもらい、この長い餅が、武運が長く続く象徴として幸先よしと大変喜んだとか。
後年、高虎が津・伊賀に転封されると、笹井屋の彦兵衛を召し出して礼をし、
また参勤交代のときには必ず立ち寄って「なが餅」を賞味したと、笹井屋では紹介しています。
また同様の話に、吉田宿で無銭で餅を食べた高虎公が、主人に正直に謝ったところ、咎めるどころか出世払いでよしとして土産に餅を持たせ、見送ったという話もあります。
講談では、この高虎公の逸話を題材にした「出世の白餅」というお話があります。

「東海道旅日記」10月2日 訳文続き

2020-7-15 UP

更に進んでいくと、亀山というところに到着した。
山のある方を見ると、時雨が降っているように見えた。
名にしあふ 都のにしの かめ山の
  山にもけふや 時雨ふるらし
ほどなく関の地蔵に着いた。この関では昔から、
顔を白く化粧し地蔵顔した遊女達が
錫杖ではなく、杓子を手ごとに打ち振って
「旅人のかた泊まっておいきなさい。
     お疲れをとっていかれなされ。
じきに日も暮れます。これより先にはお宿はございません。
通しませんよ。」
などという声があちらこちらに聞こえてくる。

あづさ弓 はるばるきぬる 旅人を
  爰(ここ)にてせきの 地蔵がほする

私には罪とがもない。頼みにするまい。
教化別伝。南無阿弥の塩辛を腹が膨れるほど食べたので
杓子ですくわずとも。
などと言って更に馬を早めて
坂の下の里に到着し、一泊。

10月 2日 訳文

2020-7-2 UP

2日 晴天 風は烈しく 巳の時ばかりに風が静かになった。
四日市場というところに到着。この里に知人がいるので、
立寄って午時ばかりに出て 
濱田の里を過ぎて日ながの里にさしかかる

里人は 日永の宿と をしゆれど 
  折しも 冬の 日こそみじかき

と詠って、馬を早めて杖つき野にかかる。
この野を越えるのに徒歩の人の苦しさといったらない。

かち人の 東の旅の 草臥に
  つえつき野とや ひとのいふ覧

ようやくこの野をすぎて、石薬師というところに着いた。
庄野というところを通る時に、供の者どもが、
歌とはどのように詠むのかと問うと
その中に歌の心をしる人があったのだろうか。
感じたことを31文字で詠むのだと教えたので、
では詠んでみようということで、

 ひだるさに行事かたき いしやくし
  なにとしやうのゝ やき米を喰 

と詠んで この庄の名物だというやき米を、我もと求める。
供者の歌としてはまずまずといったところか。

→次週に続く