〇遠州公と伊賀焼
ご機嫌よろしゅうございます。
伊賀焼では、藤堂高虎を岳父にもつ遠州公の影響も伝わっています。
『三国誌』に「寛永年間小堀遠江守陶工をして茶器を製せしむ、其製極めて精良なり」
とあり、「遠州伊賀」と呼ばれています。「遠州伊賀」の特色は漉土にあって、それ以前の荒土の製に比べ肌が細かいことが知られています。
また「伊賀の七焼き」とも言われるように、伊賀焼の特徴である焦げや激しい造形は同じ作品を何度も窯で焼くことで生み出されるといわれることがありますが、「遠州伊賀」に関してはおそらく登り窯で一度の焼成で作られているようで、浅い火色に優美さが感じられ、「筒井伊賀」「藤堂伊賀」とはまた異なった繊細な雰囲気が印象的です。
昨年12月に根津美術館で開催された「新・桃山の茶陶」でも紹介されていましたが
伊賀焼の水指などは、藩が贈答品として用いるために大名がその生産や流通に携わっていたため、当時は市場にでまわることはほとんどありませんでした。
〇伊賀焼の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
先月ご紹介した信楽の地と山を越えると、そこは伊賀。
伊賀市は三重県の北西部にあたり、江戸時代には藤堂家の城下町や
伊勢神宮への参拝者の宿場町として栄え、
忍者や松尾芭蕉のふるさととしても有名な地。
この伊賀でも茶陶の生産が行われていました。
茶会記に初めて登場する伊賀焼は、
天正九年(1581)十月二十七日に床飾りされた「伊賀壺」ですが、
この時代に遡る古窯についてはよくわかっていません。
本格的に伊賀で茶陶が焼かれ始めるのは、天正十三年(1585)に
筒井定次が大和郡山からこの地に移封となってよりと考えられています。
上野城内で茶道具の焼成を目的としてはじまり、
慶長十三年、藤堂高虎・高次が城主となって後も引き継がれ、
桃山陶器の一つの頂点を極めます。
〇遠州公と信楽焼
ご機嫌よろしゅうございます。
この信楽の焼き物も遠州公が指導したといわれている窯の一つです。
遠州信楽は漉土を用い肉が薄く精巧を極めているといわれています。
代表的なものに長辺二方に浅い切り込みをつけ、
高台は三方に切り込みをつけた割高台風の筆洗型茶碗「花橘」
(2015年05月04日メールマガジン参照)と、
切形と呼ばれる見本をもとに焼かれた茶碗(HP参照)があります。
この茶碗は高取や志戸呂などにみられる形と同じで、
平天目形の一部を押さえ込んだ姿であり、「前押せ」といわれています。
遠州信楽の特徴である漉し土で作られたものの中でも、
極めて薄く作成された作品です。
信楽の土の味わいをいかしつつ、綺麗さびの瀟洒な美意識が投影され、
洗練された作品を生み出しました。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶の湯の中の信楽焼のお話しを。
信楽焼は先月ご紹介した珠光の「心の文」に
「ひせん物、しからき物」とあるように、
珠光が没する文亀二年(1502)までには備前や信楽の器が
茶の湯で使われていたことがわかります。
備前ともに信楽の水指の登用は早く、
15世紀頃には水指の生産が次第にはじまり、
茶会記には天正15、6年から盛んに用いられたことがうかがえます。
他の窯でも同様ですが、茶の湯道具はもともと茶陶として焼かれたのではなく、
早い時期のものは茶道具にふさわしい寸法やなりのものが「見立て」られて
水指として使われたもので、次第に茶陶の生産がはじまります。
信楽の花入は水指に比べて伝世品が圧倒的に少なく、
また作行には同時代の備前や伊賀のような強い作為は見られません。
〇信楽焼の特徴
ご機嫌よろしゅうございます。
信楽焼はその素朴さが好まれ、
茶人たちに茶の湯の道具として取り上げられていきました。
信楽焼に使われる土は、
琵琶湖の湖底に堆積した古琵琶湖層より採取します。
およそ400万年前から積もった土は耐火性があり、
信楽焼の素朴な肌触りや温かい火色を創りだします。
掘り出された様々な性質をもつ土や原料を砕いて、
水分と一緒に良く練ることで更に良質の陶土をつくります。
この土で成形した作品を1200度以上、二日間以上かけて焼いていきます。
窯で焼いたときに付着する自然の灰(ビードロ釉)、
そして土に含まれる石粒が白っぽくなることが信楽焼らしさを生み出しています。
〇信楽焼の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
先月の備前焼に続きまして、今月は信楽焼のご紹介を。
信楽焼も備前とともに六古窯に数えられる窯の一つです。
※信楽町観光協会ホームページより引用
信楽は、近畿地方と東海地方を結ぶ交通路に位置し京都にも近いこと、また良好な陶土が豊富なことから、古くから焼き物の産地として知られていました。
大もの陶器の産地として知られる信楽焼は、幻の都紫香楽宮の屋根瓦を焼くことから始まったといわれています。窖窯による壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが主でしたが、
室町時代になり、土味を生かした素朴な風合いが茶人の目に止まり、桃山時代に至って茶陶として発展しました。