10月 31日(月)ハロウィン
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は10月31日、ハロウィンです。
ハロウィンはもともとヨーロッパの民族行事でしたが
秋の収穫を祝い、亡くなった人たちをしのぶ
収穫感謝祭がキリスト教に取り入れられ、
現在のハロウィンになったと言われています。
さて、茶の湯の道具には阿古陀と呼ばれる、
カボチャの仲間の植物を形どったものがあり
香炉や茶器などにも見られます。
御先代も阿古陀形の水次を好んでいます
一昔前にはまだ海外の習慣としてしか
馴染みのなかったハロウィンですが、
最近では、10月に入ると街はオバケや
顔型にくりぬかれたカボチャが並び、
ハロウィンムード一色に。
子供から大人まで楽しいイベントの
一つとしてすっかり定着した感があります。
和菓子屋さんでもカボチャ形のお菓子が
ならんでいたりしますので、自宅や友人同士カジュアルなお茶にカボチャを取り入れても楽しいですね。
10月 28日(金)能と茶の湯
「砧(きぬた)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は能「砧」をご紹介しました。
茶の湯の道具で「砧」といって思い浮かぶのは
砧青磁ではないかと思います。
砧青磁は、南宋・元時代に浙江省龍泉窯でつくられた
青磁の一種でこれらは「砧手」と呼ばれました。
この砧とは、青磁鳳凰耳花入「千声」(重文)や
「万声」(国宝)の形が砧に似ていたためという説や、
青磁鯱耳花入(仙台伊達家旧蔵)のヒビを、
砧を打つ「ひびき」にかけて千利休が名付けた
ことからという説があります。
そもそも砧とは、衣を柔らかくし、光沢を出す
ための生活用具でした。
蘇武の妻子が高楼に登って砧を打つと、その音が
胡国の蘇武に届いたという故事があり、
妻が遠国にいる夫に想いを馳せて砧を打つという
形ができあがりました。
この能の情趣が想起され
砧は忘れられた女性の寂しさや恨みを表し、
また俳句の秋の季語としても、「砧」「砧打つ」
などが用いられるようになります。
10月 24日(月)全国大会・観光
「高取焼宗家」
ご機嫌よろしゅうございます。
10月22日土曜日より福岡にて開催されている
第50回遠州流茶道全国大会。
本日は最終日で全国から福岡に集まった門人が
宗実御家元と共に名所を観光します。
今回は太宰府天満宮と高取焼宗家。
高取焼といえば遠州指導窯の一つ
(詳しくは2013年のメルマガでご紹介しています。
ご参照下さい。)
黒田藩の御用窯として栄えた高取焼ですが、
初代八山は遠州公の指導を受け茶陶を焼いたことで、
その作風は瀟洒なものに変化していきました。
現在13代宗家八山氏の長男・春慶氏が宗実御家元の下で、内弟子として修行中です。
遠州公に指導を受けた高取八山のように、
未来の八山が御家元指導のもと、素晴らしい茶陶を
生み出すことを楽しみにしています。
高取焼宗家HP
http://www.takatoriyakisouke.com/homepage-new2.html
10月 21日 (金)能と茶の湯
「砧(きぬた)」
ご機嫌よろしゅうございます。
晩秋の風が吹き始める頃となりました。
日が落ちるとなんとなく物悲しい気持ちに...。
そんな秋の夜空に寂しく響く
砧の音を扱った能「砧」をご紹介します。
九州芦屋の何某(なにがし)は、
訴訟のため上京し、既に三年の年月が経ちます。
故郷の事が気にかかり、今年の暮れには帰るという文を
侍女の夕霧に待たせて国許に返します。
寂しく月日を送っている妻はこの便りを聞き、
折から聞こえてくる里人の砧を打つ音に誘われ、
夕霧と共に砧を打ち、心を慰めます。
そこへ今年も帰れぬという知らせが都から入り
妻は絶望のあまり亡くなってしまいます。
帰国した何某が故郷に帰り、妻の菩提を弔っていると、
妻の亡霊が現れ、妄執のため地獄の苦しみを
受けていると訴え、夫の不実を恨みますが、
読経の功徳により成仏します。
10月 17日(月)茶の花
ご機嫌よろしゅうございます。
晩秋から冬にかけて、お茶の木に
白く可愛らしい花が咲きます。
爽やかな香りが秋の風にのって運ばれます。
しかし原因は不明ですが、お茶の木は花が多いと
翌年の作柄がよくないといわれ、茶農家の方には
あまり喜ばれないようです。
茶の木はツバキ科の常緑低木で、開花後一年
かけて果実が成熟し、翌年秋に3個の種子ができます。
この種子の寿命は短く、夏を越すと70~80%は
発芽力を失うといいます。
そのため栄西禅師が宋から茶の種子を伝えた際
いったん肥前国背振山に仮播種し、数年後に
取れた種子を栂尾の明恵上人に譲り渡したと
考えられています。
このため佐賀県と京都の二箇所に日本最古と
言われる茶園が存在するのだそうです。
10月 14日(金) 能と茶の湯
「松風」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は能「松風」をご紹介しました。
この能は、「源氏物語」の「須磨」の巻と
『古今集』在原行平の
わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に
藻塩たれつつわぶとこたへよ
の歌を素材として作られています。
「熊野」と呼ばれる春の曲と並んで大変人気のある
曲目で「熊野松風に米の飯」などと言われる程
親しまれています。
この松風に縁の道具に千宗旦茶杓「松風」「村雨」
があります。
うち村雨は焼失し、現在松風のみ藤田美術館に
現存しています。
白寂胡麻竹を使用し、丸くて左下がりの櫂先など
宗旦の特徴が随所に見られる茶杓です。
また、日本では釜の六音といって、
魚目・蚯音・岸波・遠浪・松風・無音
と六段階に分類していました。
「松風」はその内の一つであり
現代では釜音の総称として多く用いられます
10月 10日 (月)秋季講演会
ご機嫌よろしゅうございます。
本日、江戸東京博物館にて新発田藩溝口家と小堀家を
テーマにした秋季講演会が開催されます。
溝口家は新潟新発田地方を治め、藩祖秀勝以来、
転封もなく明治維新まで続きました。
溝口家の藩祖・秀勝は古田織部の茶会に招かれ
茶碗を贈答され、また三代宣直は片桐石州
の茶会に招かれるなど、代々茶の湯に親しんでいました。
四代重雄は仲介を経て、当時小堀家所蔵の
遠州伝来道具五種を入手しました。
古瀬戸茶入銘「胴高」
古瀬戸茶入銘「大概」
中興名物茶入銘「蛍」
利休所持青磁香炉
閑極法雲東澗道洵両筆墨蹟
これらは小堀家三代宗実正恒の急死から、
四代宗瑞正房への跡目相続のため多額の金子が
必要となり溝口家に譲渡されたものです。
その後、宗中公と十代藩主直諒(翠濤)は、
江戸木挽町の新発田藩中屋敷・幽清館において交流し、
現在も二人の合作が数点残されています。
今日は講師宮武慶之(同志社大学研究開発推進機構特任助手)
先生が新資料をもとに、その後の江戸における両家
について講演されます。
10月 7日(金)能と茶の湯
「松風(まつかぜ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
明日8日は二十四節気の寒露です。
野草には冷たい霜が宿り、山も色づき始める頃
秋風と共に、どことなく物寂しさも感じられます。
さて秋の夕暮れを舞台にした曲に「松風(まつかぜ」
があります。
西国に向かう僧が、途中須磨の浦で在原行平の
愛した松風・村雨に縁の松をみつけます。
懇ろに弔い、藻塩小屋で一夜を明かそうと
していると、海女の姉妹が汐汲車を引いて小屋に
戻ってきます。
そして自分たちが松風と村雨であると名乗り、
行平と共に過ごした三年の思い出や、都へ戻った
行平が亡くなったことを語り、形見の烏帽子狩衣を
身につけて舞い、村雨と共に妄執の苦しみを語り
僧に回向を頼みます。
やがて夜が明けると二人の姿は消えており
松風の音だけが響いているのでした。
10月 3日(月)宗家道場の床の間拝見
ご機嫌よろしゅうございます。
秋も次第に深まり、
赤や黄色に色の変わった草木に露がおりる頃
床の間にもその景色を切り取ったかのようです。
さて、今月の十三日は十三夜
また美しいお月様が楽しめます。
床 紅心宗慶宗匠筆 明月清風共一家
花 姫百合藤袴 山白菊 吾亦紅 尾花
花入 手付籐組
床の間の掛物「明月清風共一家」は
明月と清風はあいかわらず連れあっているという意味の
『五灯会元』所載の語です。
青山緑水元依奮
明月清風共一家
と対句をなし、悟りの後でも変わらない自然の姿を表現しています。