5月 6日 (水)風炉の花

2015-5-6 UP

5月 6日 (水)

風炉の花

ご機嫌よろしゅうございます。 風炉の季節、山の草花や樹々も いきいきと緑を増し始めます。 その自然の様子をうつすように、床の間の花も 椿から草花に変わり、花入は籠など 軽快なものも使用して楽しみます。 今日はお点法を離れて、風炉の花についてご紹介します。 爽やかな中にも季節の変わり目である初風炉の 床の間に格を感じられるものに 牡丹や大山蓮華があります。 牡丹は花の王であり、国に二王なしと言われるように 一輪で用い、何色にも染まらぬという意味もあり 白が好まれました。江戸時代には全国の大名に 茶の湯が親しまれ、牡丹一輪の心は儒教の心を 表すとされました。 真っ白な花弁に赤いしべが鮮やかに 映る大山蓮華は、深山に咲くため入手困難だったからか 松屋や天王寺屋などの古い会記には その名を記すものがありません。 一番古いものとしては松平不昧が 幕末に遠州公作の竹花入に入れています。 その茶会の数年後、やはり不昧が竹の花入に入れていますが この二回の記録以外には今のところ見当たりません。 近代に至り、栽培も始まったこと、また流通も発達したことも 手伝って自然と風炉の花として 重用されるようになっていったようです。

5月 4日 (月) 花橘(はなたちばな)

2015-5-4 UP

5月 4日 (月) 花橘(はなたちばな)

むかしをば 花橘のなかりせば

何につけてか 思ひ出まし

(「後拾遺和歌集」 藤原高遠)

花橘がもしなかったならば、何を手がかりに、
昔を思い出せばよいのか、いや思い出せない。

この歌の銘のついた茶碗があります。
遠州蔵帳所載の信楽茶碗です。
遠州公の切型をもとに作られたと伝えられ
いわゆる筆洗形をしており、
長辺二方に浅い切り込みをつけ
高台は三方に切り込みをつけた割高台風の茶碗です。

ほのかに香る花橘の香りが、昔の想い人を
思い出させる。
橘は蜜柑の仲間で、「常世の国」の不老長寿
の実のなる瑞祥の木とされていました。
この橘の香りと懐旧の念を定着させた歌が

さつき待つ花橘の香かげば

むかしの人の袖の香ぞする
(「古今集」読み人知らず)

でした。その香りを嗅いだ途端、無意識に人を
過去のある場面に引き戻す。
そんな甘酸っぱい切なさの感じられる橘の歌です。

5月 1日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-5-1 UP

5月 1日 (金)遠州公所縁の地を巡って
備中と遠州公

ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が備中で奉行を務めたのは
およそ十三年間。
その間まちづくりにも深く関わったと言われています。

松山城が荒廃していたため、父・新介正次と共に遠州公は
頼久寺を居とします。
この頼久寺の庭園は、遠州公が初めて作った庭園と
言われています。
愛宕山(あたごやま)を借景(しゃっけい)に、
砂の波紋で海洋を表現し、
鶴亀二島の蓬莱石組、鶴島の三尊石組を配しています。
サツキで大海の波を表す大胆な大刈込みは、
遠州公独特のものです。

またこの地の特産品にも遠州公と関係が

古くから紙の生産が盛んであった備中。
特に戦国時代から朝廷や幕府に檀紙を納入する柳井氏
を指導・保護し、備中特産の紙の流通に大きく関わっていました。
また柳井氏は、遠州公の指導で茶の湯で使用する
「釜敷紙」生産したとも言われています。

遠州公がこの地に伝えたとされる「ゆべし」
もともとは戦の保存食であったものでしたが、
もち米に備中名産の柚子を練りこんだ和菓子に姿を
変えました。
現在でもこの地の特産品として根付いているそうです。