12月 9日(金)能と茶の湯「岩橋」

2016-12-9

12月 9日(金)能と茶の湯「岩橋」ご機嫌よろしゅうございます。利休作竹一重切花入「岩橋」をご紹介します。竹が侘びた錆味を見せ、裾に未完成とも思える鉋目(かんなめ)があることから遠州公が、明けぬ間をたのむ一夜の契だに尚かけわぶる久米の岩橋の古歌より引用し命銘されました。「久米の岩橋」は能に登場しました伝説上の石橋で、役行者が大和国葛城山の一言主に葛城山から吉野金峰山に架設を命じますが、一言主は己の醜い要望を恥じ、夜だけしか働かなかったため工事は完成しませんでした。この伝説になぞらえて遠州公が命銘されています。

7月 10日 (金) 納豆の日

2015-7-10

7月 10日 (金) 納豆の日

ご機嫌よろしゅうございます。

7月10日は納豆の日とされています。
今日は納豆と茶の湯についてご紹介します。

納豆は鎌倉時代、動物性たんぱく質を
摂ることのできなかった禅宗の僧侶が、
精進料理として、取り入れたもの
といわれています。

江戸時代には納豆は早朝に行商が
売り歩きにきました。
庶民にも広く普及していたようです。
この頃まではまだ醤油も普及しておらず
納豆は調味料的な利用をされ、
汁にすることが多かったようです。
茶の湯に関して言えば
千利休最晩年の天正十八(1590)年から
十九年にかけての100回に及ぶ茶会記を記す
『利休百会記』の中で
天正十八年に7回、茶事の会席において
「納豆汁」を出した記録があります。
秀吉や細川幽斎などの武将にも振舞っています。

天正18年は利休が自刃する前年ですので、
利休の茶の湯も確立された頃
納豆はその精神に叶う食事として会席に利用した
のでしょうか。

2月 18日(水) 蓋置

2015-2-18

2月 18日(水) 蓋置

ご機嫌よろしゅうございます。

濃茶で使用する蓋置は基本的に青竹の
「引切り」を使用します。
(書院で棚を使用する場合などは
砂張などの蓋置を使用する場合もあります。)

これは、その点法一度きりのために用意された
ことを示し、その竹の青さが「清浄」を表します。
これは本来木で拵えたものの多くに当てはまることで
茶筅や柄杓、黒文字なども、使い切りとして
作られたものでした。

竹蓋置は、武野紹鴎が節合一寸三分に切り、
面桶の建水とともに水屋に使っていたものを、
利休が一寸八分に改めて茶席に使用したといわれています。

蓋置に使用される真竹は、一本の竹が2~3m程で
その内節は2~3個ほどしかありません。
普段何気無く使用している大変貴重なものです。

宗湛日記

2014-6-8

6月8日 宗湛日記

ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりましたので、官兵衛の時代のお話を。

この時代の様子を知る資料として
「宗湛日記」があります。
神屋宗湛 (1551~1635)は、 安土桃山・江戸初期の豪商。
筑前博多で、先祖は石見銀山の開発に携わり、
宗湛は朝鮮・中国・ルソン・シャムと通商して巨利を得ました。

畿内の諸大名や千利休、津田宗及らと親交があり
大徳寺にて出家し、宗湛と号しました。
「宗湛日記」は、宗湛が秀吉時代に活躍したことを
まとめた茶会記等を記録し、
津田宗及の「天王寺屋会記」、今井宗久の「今井宗久茶湯書抜」、
松屋三代に渡る「松屋会記」と並ぶ、四大茶会記ともされますが、
現在では後世に作られたとする説もあります。

家康の時代になってからは、急速にその力を失ってしまいますが、
江戸時代には黒田家の御用商人となり
特に官兵衛、後の如水と宗湛は親交も厚く
黒田家が筑前に入国する際には、
如水はしばらく宗湛の家に滞在していたそうです。

利休命日

2014-2-28

2月28日  利休命日

天正十九年(1591年)の今日2月28日
茶の湯の大成者
千利休が切腹し、この世を去りました。

秀吉の怒りを買い
切腹となった原因には諸説あります。

・わび・さびを重んじる利休に対して、
派手好みの秀吉と対立するようになった
・茶道具を高額に売り、利を上げていた
・秀吉が利休の娘を側室にと望んだことを断ったため
・大徳寺の山門に利休の木像を掲げた
等々

真相は今もなお大きな謎ですが
秀吉が、茶の湯を利用して
柔軟に諸大名を支配下とし、治安の統制を
はかるため登用した利休が
商人でありながら
大名以上に力を持つ存在となり
身分制度を確立していく段階において
不都合なものになっていったことも
大きな要因と考えられます。

片桐石州

2013-11-20

皆様、ご機嫌よろしゅうございます。

本日は遠州のあとに、将軍家茶道指南役となった片桐石州の命日です。

 

≪人物:片桐石州≫

片桐石州は慶長10年(1605)に大和小泉藩の初代藩主・片桐貞降の長男として生まれました。

賤ヶ岳の七本槍の1人である片桐且元の甥にあたります。

遠州より27歳年下で、関ヶ原の戦からも5年経ってからの誕生であり、当時の著名な茶人たちとは、一回り下の世代に属していました。

石州は千利休の実子である千道安の茶の流れを汲んでおり、道安の弟子である桑山宗仙に学んだと言われております。

やがて遠州の後、将軍家茶道指南役になる人物ですが、茶系としては千家の茶の流れであり、大名茶でありながらも、楽の茶碗を使用するなど、その特徴を随所にみることができます。

 

遠州の茶会には3回招かれており、他にも金森宗和や松花堂昭乗など、多くの茶人と交わりました。

寛文5年(1665)には、4代将軍徳川家綱の所望によって点前を披露し、その後、茶道指南役となり名を馳せます。

やがて石州を流祖として石州流が生まれ、江戸後期に『雲州蔵帳』を編纂した松平不昧や、大老であった井伊直弼がその流れとして知られております。

延宝元年(1673) 11月20日、69年の生涯を閉じました。