遠州公出生の逸話

2015-2-6 UP

2月 6日(金)遠州公出生の逸話

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公は近江小堀村で、新介を父に生まれた…
とご紹介しましたが、

実は、小堀遠州は浅井長政の忘れ形見である
という逸話が伝わっています。

浅井長政は、もともと遠州公の父新介が仕えており
織田信長に攻められ、落城した小谷城の悲劇は有名です。

その際、長政の長男万福丸は極刑となりますが
お市の方とその娘三人が助け出されます。

このとき実はお市の方にはもう一人、
生後間もない赤ん坊がいたのです。
その乳飲み子は、小谷城落城の際乳母に助けられ
無事脱出し、当時神照寺に出家していた
遠州の父新介に預けられたというのです。

そしてその乳飲み子が後の遠州公になったのだとか

真相は定かではありませんが、
遠州公が偉大な功績を残した故に生まれた逸話では
ないでしょうか。

遠州公ゆかりの地に建つ小学校

2015-1-30 UP

育ての泉1月 30日(金) 遠州公ゆかりの地に建つ小学校
「南郷里小学校」

ご機嫌よろしゅうございます。

先週は遠州公の故郷小堀村についてご紹介しました。
この小堀村を学区にもつ南郷里小学校では
地域所縁の人物である遠州公にちなんだ学習に取り組み、
遠州流茶道の指導や、遠州公の茶の湯の心を道徳教材として
取り上げるなどの活動をしています。

この学校の校章は七宝花菱をモチーフにされており、
また1975年に開学百年を記念して作られた校歌の二番には

二、ゆかりもふかい  遠州公
歴史のかおり  今もなお
条里の土は  はろばろと
知恵のいずみの わくところ

と遠州公が登場しています。

この開学百年記念の際には
「育ての泉」というモニュメントも校内に作られました。

こちらはゆかり深き遠州公の斬新な作庭の創意工夫を
取り入れて作られた湧泉式のつくばいから水が
流れる仕組みになっています。

遠州流茶道では遠州公の教えを学びながら
茶の湯の心、思いやりの心を学んでいます。

同様に、この南郷里小学校を毎年卒業する100名を超える生徒達が
遠州公の心を学び、社会に巣立っていきます。
遠州公の教えはこうして地域の方にも受け継がれていたのでした。

一休さんと善哉(ぜんざい)

2015-1-19 UP

1月 19日 (月) 一休さんと善哉(ぜんざい)

ご機嫌よろしゅうございます。

冬に温かい善哉(ぜんざい)をいただくと
体も温まり、幸せな気持ちになりますね。

この善哉、実はとんちで有名な一休さんが
関係しているのです。

京田辺市にある「酬恩庵」。
もともと臨済宗・南浦紹明が帰朝後
禅の道場をここに建てたお寺でしたが、
その後荒廃していたところ、一休禅師が再興し
南浦紹明の恩にむくいるという意味で
「酬恩庵」と命名しました。
禅師はここで後半の生涯を送り
八十一歳で大徳寺住職となっても、この寺から
大徳寺に通ったのだそうです。
こんな経緯からいつしか
「一休寺」と呼ばれるようになりました。

さてこの一休寺で、一月一日生まれの一休禅師に
ちなんで毎年一月に行われる行事があります。
一年間の誓いの言葉を奉納し、自分自身の目標を立てて
新たな一年を過ごそうというものです。
最後に、一椀祈祷奉納を行い、
善哉(ぜんざい)が振舞われます。

この善哉という呼び名、大徳寺の住職から
お餅の入った小豆汁をご馳走になった一休禅師が、
その美味しさに
〝善哉此汁(よきかな この汁)〟
と言われたことが始まりといわれています。

元旦

2015-1-1 UP

1月1日 (木) 元旦

皆様
新年あけましておめでとうございます

本年も遠州流茶道は稽古照今・温故知新の精神で
皆様と共に茶の湯の心を伝えてまいりたいと
思っております。
何卒よろしくお願い致します。

さてこのメールマガジン「綺麗さびの日々」
も二年目を迎えることが出来ました。
日頃のご愛読感謝致します。

本年は配信スタイルを月・水・金曜日に変更し
月曜には、四季を通じた便り
水曜には、遠州流のお点法について
金曜には、遠州ゆかりの地を巡って
というテーマを基本に
お送りさせていただきます。
土日には関連イベントの告知もその都度
お伝えしていく予定です。

遠州流門人の皆様にはもちろんのこと
他流でお茶を楽しまれている方や
お茶に興味のある方にも読んでいけいただける
ようなお話をしていきたいと考えておりますので
どうぞお楽しみに。

さて、今年の干支は乙未です。
羊は群れをなして行動するため、
家族の安泰や平和をもたらす縁起物とされているのだとか
今年一年が皆様にとって平和で穏やかな年と
なりますように。

歌銘(うためい)

2014-12-17 UP

12月 17日 歌銘(うためい)

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公が中興名物茶入の選定に際し、
「歌銘」を多くつけたことは、
これまでに何度かお話してまいりました。
その出典は勅撰集を中心に、古典的な
和歌から言葉を選び、つけられています。
雅で洗練された「綺麗さび」を象徴するもの
の一つです。

しかしこの「歌銘」
遠州公が初めて使ったわけではありません。
今のところ一番古い「歌銘」は、
4月28日にご紹介した、義政公の「遅桜」

夏山の 青葉まじりのおそ桜
初花よりもめづらしきかな

といわれています。
しかし、それ以後は遠州公ほどに「歌銘」
を多用した茶人は他にいません。

また、和歌の選び方にも、遠州公は
これまでにない感覚を茶の湯に吹き込んでいます。

一休宗純

2014-11-21 UP

11月 21日 一休宗純

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は頓知でおなじみの一休さんについての
お話しをしたいと思います。

ボサボサ頭に、ボーボーの髭
一休宗純は後小松天皇の御落胤とも言われていますが、
室町時代、風狂の精神の下で、形骸化した政治や仏教を
風刺するなど、形式にとらわれない行動と
人間らしい生き方が庶民の評判となります。

侘び茶の創始・村田珠光(じゅこう)も一休の門下になりました。
修行を行う中、「仏法も茶の湯のなかにあり」
という一休の教えを受け「茶禅一味」(茶も禅も同じ)
の悟りに達しました。

茶の湯だけではなく、花や連歌などをする多くの
文化人が一休の下に集い、その影響を受けたと
言われています。

一休が臨終の際に、弟子に
「これから先、どうしようもないくらい
困難なことが起きたら開けなさい。」
と、手紙を渡しました。

いよいよその時、弟子が手紙を開けると
中に書かれていた言葉は
「心配するな。大丈夫。 なんとかなる。」
だったとか。

文明十三年(1481)十一月二十一日の今日
八十八歳で亡くなります。

遠州公と高取焼

2014-11-2 UP

11月 2日 遠州公と高取焼

ご機嫌よろしゅうございます。

先月遠州公の国焼指導についてのお話を
致しました。

黒田官兵衛の子・長政が開く福岡藩にも
遠州公指導の御庭焼である「高取焼」があります。

黒田長政は朝鮮の役で、後の高取八山を
妻子共に日本に連れて帰り、
黒田公の召し抱え、しかも月俸七十人扶持、寺社格
という高禄で迎えられます。

慶長六・七年頃に永満寺宅間窯に開窯しますが
遠州公の指導を受けるようになったのは
そのもう少し後。

この遠州公と高取焼の出会いには
ある有名なエピソードがあるのです。
その話はまた改めて…。

遠州流全国大会

2014-10-18 UP

10月 18日  遠州流全国大会

ご機嫌よろしゅうございます。

今日18日から20日まで
広島・呉・広の三支部担当による
遠州流全国大会が広島にて開催されます。

この大会で、四十八回目を迎える全国大会
記念すべき第一回は、昭和40年6月
青森支部で開催された東北大会です。

その後万国博覧会などの理由で開催されない年が
2年ほどあった年を除き、2014年現在に至るまで
毎年、各地の支部でこの全国大会は行われてきました。

今回の大会の観光は安芸の宮島を参拝する予定です。
お家元とご一緒に名所を移動し
お近くでお話しできる貴重な機会で、
お茶会とはまたちがった楽しさがあります。

顕彰会講演会

2014-10-13 UP

10月 13日 顕彰会講演会

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は飯田橋のしごとセンターにて

「遠州の憧れた定家の世界」
をテーマに講演会が行われます。

遠州公と定家については、既にこの
メールマガジンで何度か触れてまいりましたが
定家様の第一人者であった遠州公と定家との
関係を、國學院大学 文学部教授の
豊島 秀範 氏 が、詳しくお話ししてくださいます。

月刊「遠州」にて「狭衣物語」を連載されていた
先生で、ご専門は中古、中世文学で特に和歌や日記
を研究されてます。

明日はその講演会の模様をお伝えする予定です。

講演会参加ご希望の方は、
顕彰会までご連絡ください。

鷺(さぎ)の絵

2014-9-26 UP

9月 26日 鷺(さぎ)の絵

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は鷺の絵のお話をいたします。

鷺の絵は、松屋三名物の一つです。
奈良の松屋は漆屋を称した塗り師の家で
その茶を村田珠光に学びました。
鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、
利休が「数寄の極意」としたこともあって
名だたる茶人はこぞってこの絵を松屋に拝見にいきました。

遠州公の師、古田織部
は利休に「数寄の極意」をたずねたところ
利休は松屋の鷺の絵を挙げられ
翌日、織部は直ちに馬で奈良に向かい
その鷺の絵を拝見したというエピソードもあります。

遠州公の父、新介正次は当時松屋の茶会に赴いたり、
自宅の茶会に招くなど親交を深めていました。
遠州公は父に連れられて、文禄3年2月3日、16歳の時に
この絵を拝見しています。

残念ながら現在は焼失し、見ることはできません。