6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って 「江戸城での茶会」

2015-6-5 UP

6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城での茶会」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸城で行われた茶会について
ご紹介します。

元和六年(1620)
江戸城で秀忠の茶会に諸事承る

将軍秀忠が行った茶会についての
遠州公の自筆記録が残っています。

年号が記されておらず、明確ではありませんが
遠州公四十三歳の頃には既に将軍秀忠の茶会に
たずさわっていたと考えられ、
織部が亡くなった翌年から元和四年(1618)
の間三十八歳から四十歳の間に
秀忠の将軍茶道指南役になったと思われます。

また元和九年(1623)から寛永九年(1632)の約十年
遠州公四十五歳から五十四歳の頃は
伏見奉行、大坂城や仙洞御所の作事奉行を
兼務し同時に、茶の湯においても
大御所となった秀忠・将軍となった家光の
双方の指南役として活躍し、多忙な日々を送っていた時期でした。

5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-5-29 UP

5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って
小室の領地へ

ご機嫌よろしゅうございます。

元和五年(1619)遠州公四十一歳の時
備中国から、近江国に転封となります。

この近江は遠州公の生まれ故郷であり、
浅井郡の小室の地が領地となります。
これから小堀家は七代宗友公まで、
代々小室藩主となります。

遠州公はこの小室の屋敷内に「転合庵」と「養保庵」
という茶屋を設けましたが、多忙な遠州公は
ここにはほとんど住まわず、二つの茶屋も
小室に帰国した際に楽しむために作られた
ようです。

二代宗慶公の時代に陣屋が建設されました。
小室藩の陣屋は、藩主が住まう館と、
それを囲むように家老や家臣団の屋敷が配置され、
藩の政治機構が整えられました。
二代目以降もほとんどこの小室の陣屋に藩主は
おらず、小室藩の実際の治世は家臣達が担っていました。

現在、かつて小室藩の陣屋が置かれていた付近には、
小室藩が祀ったとされる山王社(現日吉神社)や
稲荷社や弥勒堂などの祠堂、家老の和田宇仲の屋敷に
湧き出ていた泉から引かれているという宇仲池など
のみが残っています。

5月25日 (月) 五月雨(さみだれに)に…

2015-5-25 UP

5月25日 (月) 五月雨(さみだれに)に…

星ひとつ 見つけたる夜のうれしさは

月にもまさる 五月雨のそら

ご機嫌よろしゅうございます。

そろそろ雨の多い季節がやってきます。
空を見上げても、ぐずついていることが多く、
なかなかすっきりとした夜空を見ることも
難しくなるのではないでしょうか。

先程の歌は遠州公が茶杓の銘につけた歌です。

節から切止へ降りていった左側に
小さな虫食いがあり、
遠州公はこの虫食いを星に見立てて
この歌銘をつけました。
曇りがちな梅雨の頃の夜空に、星を見つけた
ときの嬉しさ
茶杓の景色としてとても映える虫食いの竹を
見つけた喜びにかけてこの歌銘がつきました。

遠州公の茶杓は煤竹や、虫食いなどを景色にした
瀟洒なつくりのものが多く、見所が多いです。

5月 8日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-5-8 UP

5月  8日 (金)遠州公所縁の地を巡って
京都三条の屋敷

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の屋敷についてご紹介します。

遠州公三十七歳の折、弟の治左衛門正行が、
三十三歳で遠州公の京都の屋敷で亡くなっています。

この屋敷は詳しくはわかっていませんが、
以前藤堂高虎の所有であったものを
遠州公が最初の作事奉行になった
後陽成院の御所を造営する慶長11年頃に
遠州公に譲られたと言われています。

京都の三条に位置し、遠州公が居住するように
なってから徐々に改築が行われ
四畳半台目下座床の席が作られていたようです。

伏見の六地蔵からでは不便なことから、
岳父から贈られたのではないかと思われます。

これまでの研究では、「寛永初之日記」に記された
二十四回に渡る遠州公の茶会は
伏見奉行屋敷の披露茶会と位置付けられてきましたが、
深谷信子氏は、寛永三年の将軍二条城行幸の際に行われた
ものとし、二条城にほど近いこの三条の屋敷で
行われた茶会ではないかとしています。

この二条城ついてはまた後日ご紹介します。

4月 24日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-24 UP

4月 24日 (金)遠州公所縁の地を巡って
備中と遠州公

ご機嫌よろしゅうございます。

関ヶ原の戦いで家康の旗本として
加わった遠州公の父、新介正次は
その功により1万石の加増を受け備中松山城を
あずかることになります。

そして慶長九年(1604)
新介正次が亡くなってからも
遠州公が引き続き備中を預かることになります。
紙や鉄の生産の盛んなこの地で
若き時代、代官として活躍した遠州公。

その遠州公の影響は今でもこの街に見ることができます。
今日は備中松山城についてご紹介します。

標高430mにある備中松山城は、
現存天守を持つ山城としては日本一高いお城です。
もとは山陰と山陽の要所として、多くの戦乱の舞台となり
戦の要としての城の役割をしてきました。
遠州公が父・新介正次と共に入国した際には
城は長い戦乱により、城郭も建物も未だ
修復されず、石垣や土塁が残るのみで荒廃していました。
そして泰平の世の到来。
遠州公は城の修復を行い、
備中松山のシンボルとしての優美な山城に姿を変えました。
(後に松山城主となる水谷勝宗も城の修復を行って
います。)

白い漆喰塗りの壁と黒い腰板の美しい天守は、
国の重要文化財にも指定されています。

また現在、御根小屋跡は県立高梁高等学校となっており、
県の史跡に指定されています。
御根小屋とは、城がけわしい山項に築かれた際、
普段の居城となった場所のことを指します。

その建物を城壁に囲まれ、遠州公の手がけたといわれる
心字池を囲む庭に当時のおもかげを忍ぶことが出来ます。
また学校内には茶室が建てられ、多くの生徒が
ここで茶の湯を学んでいます。

4月 22日 (水)遠州流茶道の点法

2015-4-22 UP

4月 22日 (水)遠州流茶道の点法
「袋茶碗(ふくろちゃわん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

3月25日にご紹介しました茶碗披きのお点法で
披露した茶碗に、亭主がその茶碗の格に応じて
裂を選んで仕服を作ったり、またお客様から
名物裂などを贈られたときに、その裂で仕服を
着せたりします。

そのため、お茶碗を披露した際と同じお客様を
改めてお招きし、今度は茶碗ではなく袋を
ご覧に入れるお点法が袋茶碗です。

茶道具に添えられる仕服の紐結び、
もともとは茶の湯が武将の戦略の一つになっていた時代、
高い身分の方に茶を差し上げる役の間で
主君の暗殺を防ぐため、自分一人の心覚えの封印結びを
したのがはじまりといわれています。
その結び方は文箱の封じ結びと同じように
紐が解かれているとすぐにわかるようになっており
教えることも習うこともない
幻の紐結びとされていたそうです。
戦国時代が終わると、このような封印結びとしての
意味合いも徐々に薄れ、花鳥風月に結びを託すようになったと
されています。(「茶の結び緒 」 淡交社)

遠州流茶道の袋茶碗の結び方は飾り付けに十三種類、
しまい込みに二種類あり、
季節やその裂の状態に応じて結び方を変えています。

4月 17日(金)遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」

2015-4-17 UP

4月 17日(金)

遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」

ご機嫌よろしゅうございます。 龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。 神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。 現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。 八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。 将軍が公式に臣下の屋敷を訪問するこの御成は、 将軍の威光を示し、主従関係を再確認する場として 機能していました。 もともと室町将軍家で行われており、それに倣い 新たな嗜好を加え、秀吉も行っていました。 特に二代将軍秀忠は、茶事を公式の行事にとり入れた 「数寄の御成」を展開します。 遠州公江戸屋敷御成の日。 この日秀忠は織部の茶会に出席しており その直後の御成であったようです。 織部から遠州へ 茶の第一人者としての将軍指南引き継ぎの布石と なったであろうことが推察される御成でした。

4月 15日 (水)遠州流茶道の点法

2015-4-15 UP

4月 15日 (水)遠州流茶道の点法
「二種点(にしゅだて)」

ご機嫌よろしゅうございます。

濃茶のお稽古で
「二種点」というお点法があります。

「二種」とはお茶の種類が二種類という意味で、
文字通り、二種類のお茶をお点てする
お点法です。

昔、お客様に招かれたお客様が、手土産として
お茶を持参したりすることがありました。

当時お茶は大変貴重なものです。
11月の口切から使用していたお茶も、
年をまたいで徐々に炉の終わりの季節ともなると
香りも落ちてきます。
そんな時、招かれたお客の方で、手持ちのよい
お茶があったり、はたまた大名など位のある方などが
お茶を持参し、亭主はいただいたそのお茶を二服目に
その理由を伝えてお客様にお点てする
これが二種点です。

一種目は亭主がもともと用意していたもので
一服差し上げ、二種目はご到来の御茶でございます。
ということで、予め茶入を用意していないので
真の棗で出すということになります。

二服点てることが予め分かっているので、
湯温を下げないように中水をしないこと
二服目は少し小服に加減し、さっとお点てすることなど
注意します。

4月 10日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-10 UP

4月 10日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「孤篷庵(こほうあん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州公は慶長十七年(1612)三十四歳
龍光院に江月宗玩を開山として孤篷庵を創設します。

この孤篷は二十代の時に
春屋宗園禅師から賜った号で
以下の偈が残っています。

扁舟聴雨 漂蘆萩間(扁舟雨を聴いて、芦萩の間に漂う)
天若吹霽 合看青山(天もし吹きはらさば、青山を看るべし)

故郷琵琶湖に漂う孤舟にたとえ
いまだ禅において修行の道なかばの状態にある遠州公の姿を、
「天がもし風雨を吹き払ったならば
すがすがしい青山を看ることができる。
すなわち禅の境涯に達することができれば
その道で成功を収められるであろう。」
と将来の遠州公の境涯を看破し、
教え導いています。

春屋禅師は遠州公が最も深く帰依した師で、
「宗甫」「大有」の号も師からいただいています。
生涯の茶会において一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師であり、正月三が日の掛け物は必ず
師の墨跡を掛けたそうです。

後、寛永二十年(1643)遠州公六十五歳のおりに、
現在の地に孤篷庵を移築し、
晩年を過ごすことになります。

4月 3日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-3 UP

4月  3日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「駿府城」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「駿府城」についてご紹介します。

天正期、駿府を拠点にした家康は
駿府城を四年かけて築城
しかし小田原の北条征伐で戦いに勝利した
家康は、関東に国替えとなって江戸に移ります。
家康は完成間近であった
駿府城に入ることが出来ませんでした。

そして慶長5年〔1600〕の関ヶ原の戦いに勝利した家康。
今度は駿府城を身内の内藤三左衛門信成に与えます。
家康が大御所として駿府城主となると、内藤は
長浜城主として琵琶湖の長浜に移りました。

慶長12年秀忠に将軍職を譲り大御所となった
家康はいよいよ修築を終えた駿府城に移り住みますが、
間も無く火災にあってしまいます。
そこで年が明けた慶長13年、
遠州公が駿府城の作事奉行を命じられます。
その功により
従五位下諸大夫遠江守に任命され、
以後小堀遠州と呼ばれるようになるわけです。

遠州公30歳
この一年、遠州公は駿府に滞在していたようです。
また織部も同様に駿府におり、家康へ茶の湯指南や
茶会を催していたようです。

そして残念ながら遠州公の手がけたこの駿府城も
今度は家康没後の寛永12年(1635)
茶町からの出火が原因で城内に飛び火、
豪華絢爛な天守や御殿をほとんど失ってしまいました。

駿府城がどんな城であったのか、わからなくなってしまった
部分も多くありますが、遠州公と大工頭であった中井正清が
後に手がけた二条城とこの駿府城は同じ作り手による
ものであることから、内部の意匠その他が酷似していたと言われ
二条城からその当時の様子を偲ぶことができる
と言われています。

現在では本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され、
巽櫓、東御門の復元もされ一般に公開されています。