七夕

2014-7-7 UP

7月7日 七夕(たなばた)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は七夕
五節句のうちの一つです。
この夜、天の川を隔てて暮らす牽牛(けんぎゅう)と織女が、
一年で一度だけ会える日とされています。
この伝承は奈良時代に中国に伝わり、
平安時代には供え物を庭に並べ、裁縫や管弦などの上達を願いました。

七夕は、この牽牛・織女星の伝説と、
そこから発達した乞巧奠(きっこうでん)の行事に、
日本古来の「棚機つ女(たなばたつめ)」の信仰が
混ざり合って形成されたものです。

このたなばたつめは機で織った布を神におさめ、
病気や災厄が起こらないように、そして裁縫の手が上達するよう
願ったとされていて
もともと7月7日の夕方を表して七夕(しちせき)
と呼ばれていましたが、
この「棚機つ女」がもとになり「たなばた」と
呼ばれるようになりました。

例年曇りがちで、なかなか空がすっきり見られないのが
悩ましいところです。
さて、本来この七夕は旧暦の7月7日でないと星座が違ってしまいます。
従って、残念ながら実際の所
二人が会えることは極めて稀ということになります。

芒種(ぼうしゅ)

2014-6-6 UP

6月6日 芒種(ぼうしゅ)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は24節気の芒種にあたります。

小満から数えて15日目頃になります。

稲や麦のような芒(のぎ)のある穀物穂の出る穀物の
種をまく季節ということから、芒種と言われています。
実際にはもう少し早く種を撒くようです。

芒は、イネ科の植物の花についている針のような突起のことで
禾とも書きます。

天目茶碗には禾目とよばれるものがあり、
茶色や銀色の細かい縦筋が無数に見られます
これを日本では穂先の禾に見立て、
この種の釉薬がかかった天目茶碗を禾目天目と呼んでいます。

幟(のぼり)

2014-5-6 UP

5月 6日 幟(のぼり)

ご機嫌よろしゅうございます。
GWも今日で最終日。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいます。

今日は幟について

幟はもともと神様の依代(よりしろ)の役割があったそうで、
これに鯉の絵を書いたのが鯉幟の起源だそうです。

また、中世以降、武家では男児の出生を祝って、
端午の節句に旗指物(家紋をしるしした旗)や幟を立てる風習があり、
江戸時代には特にこの行事が重んじられていて、
武家の玄関先には武具や旗指物や幟が並べられました。

経済面で力をつけた商人が
これに対抗して、旗指物のかわりに「鯉のぼり」
を考案したという説があります。

この鯉幟は、滝を登りきった鯉が、
龍に変身するという故事にちなんだもので
男の子の出世を願う縁起物
現在では鎧飾りと共に端午の節句に欠かせない飾りです。

例年ご宗家の玄関では
正大さんの真鯉、緋鯉の三尾が堂々と上空を泳ぎ
お客様をお出迎えしてくれます。

端午の節句

2014-5-5 UP

5月5日 端午の節句

ご機嫌よろしゅうございます。

現在五月五日は「こどもの日」として
祝日とされています。

昔から端午の節句といい、
男の子の健やかな成長を祝う日として
親しまれています。

諸説ありますが、もともとこの日は、
農耕民族であった日本人にとって田植えの準備のための神聖な日でした。
稲を植える早乙女達が、家に閉じこもり身を清める日が
旧暦の五月五日の民間行事でした。
つまり古来は「女の日」だったといえますね。

これが江戸幕府成立以来、
中国から朝廷に伝わった厄除けの風習に、武士の風習が交り、
武家を中心に男子の成長を祝う、今の風習へと変化していきました。

雛祭りもしかり、
現在みなさんに親しまれている伝統的な行事も
長い年月をかけて変化してきたのですね。

みどりの日

2014-5-4 UP

5月 4日 みどりの日

ご機嫌よろしゅうございます。
GWの二日目になりました。
皆様いかがお過ごしでしょうか?

今日「みどりの日」は
1989年(平成元年)に制定された「国民の祝日」です。
国民の祝日に関する法律」第2条には
「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し,
豊かな心をはぐくむ」
日とあります。
もともとは4月29日の昭和の日でも触れました通り
生物学を専攻され、植物に関する造詣も深かった
昭和天皇がご崩御され、
それまで60余年にわたり「ゴールデンウィーク」
のはじまりの休日として、国民の間に定着していた
天皇の誕生日を、自然を愛されたお人柄を記念する意味から
「みどりの日」とされたそうです。

今日は身近な自然に目をむけ、
新緑の美しさをじっくり愛でてみませんか?

八十八夜

2014-5-2 UP

5月2日 八十八夜

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は八十八夜です。

「夏も近づく八十八夜…」で始まる歌が頭に浮かびます。
八十八夜は立春から数えて八十八日目の日をさします。
八十八という字を組み合わせると「米」という字になる
ことから、農家では大切な日とされてきました。
この日を境に本格的な農事にとりかかります。

お茶どころでは茶摘みの最盛期となります。

お茶の葉は、一度でも霜に当たると駄目になってしまいます。
そのため昔は藁をひき、霜を防いだようです。

この八十八夜に摘まれ、
茶壺に詰められた碾茶を、十一月に取り出すのが
「口切(くちきり)」です。

この茶葉を詰めた茶壺は、茶道創生期においては、
茶道具の第一の道具でした。
今では想像しにくいことですが、茶入が茶壺に変わり人気があがるのは、
それよりも後のことになります。

初風炉(しょぶろ)

2014-5-1 UP

5月1日  初風炉(しょぶろ)

ご機嫌よろしゅうございます。

茶道ではいよいよ季節が夏へかわり 茶室の設えも、爽やかな季節に向けて 準備します。

寒い冬には、お客様に近い炉(ろ)を使って暖をとり 大きな釜で湯を沸かしました。 5月に入り暖かい季節になると、なるべく火の気をお客様から 遠ざけるため冬の間使用した炉に蓋をして 風炉を壁付きの方へ置きます。

この風炉の中にも小さな宇宙が広がります。  初夏・盛夏・晩秋にそれぞれ真・行・草と呼ばれる灰型に 形を変えて5月から10月に渡る季節の移り変わりを表現します。

「父は家元」の映画の中で 安藤執事長が灰型を作るシーンがありました。  丹精こめて手入れした灰は決して押さえずに、 その一粒一粒を  やはり自分で作った灰箒で丁寧になでて仕上げていきます。  灰が自分の思い通りに動かせるようになるまでには 長い年月を要します。

遠州流の灰は湿し灰(しめしばい)とよばれるもので 使うたびに湿らせて振るいにかけ、湿り具合を調整して保管しています。  ご宗家の灰は、遠州公の時代から繰り返し使われ、  手入れされてきた歴史ある灰で 振るう者にも、一粒とて無駄にせぬようにと 振るい方と共に教えられてきました。  直門のお稽古ではその遠州公以来の灰でお稽古しており  なんとも身が引き締まります。

遠州公の時代には26通りの型があったそうです。

昭和の日

2014-4-29 UP

4月29日  昭和の日

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「昭和の日」
祝日です。

4月29日は、もともと昭和の時代「天皇誕生日」という祝日でした。
それが、昭和64年(1989)1月7日に
昭和天皇が崩御されたことを受けて年号が平成へ。
「天皇誕生日」は今の天皇陛下のお誕生日である12月23日となり、
4月29日は昭和天皇が自然を愛したことにちなんで、
平成元年から「みどりの日」と名称を変えて祝日として存続しました。

そのあと平成17年に国会で「国民の祝日に関する法律」
が改正され、平成19年より「昭和の日」とすることになったのです。

自然をこよなく愛された昭和天皇は、
「全国植樹祭」にも必ずご臨席になり、
ご自身の手で植樹をされてきました。

国営昭和記念公園は、昭和天皇御在位50年記念事業の一環として、
建設された広大な国営公園です。

また皇居東御苑は戦後、昭和天皇御自身の発案により
作られた庭園で、
徳川時代からの日本庭園と、開発によって失われていく
武蔵野の林を惜しんでそのまま移植された雑木林があります。

この日本庭園は江戸時代、遠州公が造り
三代将軍の徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園で
焼失などにより明治以降荒廃していたものを
皇居東御苑の公開の開始に当り、
九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の
絵図面を参考に造られたものです。

どちらも四季折々の美しい自然を目にすることができ、
自然を愛された昭和天皇が偲ばれます。

穀雨(こくう)

2014-4-20 UP

4月 20日 穀雨(こくう)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二十四節気の穀雨です。

春雨が百穀を潤すことから名づけられたもので、
雨で潤った田畑は種まきの好期を迎えます。
もとは、秋に種蒔きした麦類の生長を助ける雨のこと
を指し、麦は穂が出て実をつけるようになります。
のちに稲にも適用されるようになりました。

「清明になると雪が降らなくなり、
穀雨になると霜が降りることもなくなる」
といわれますが
変化の多い春の天気もこの頃からようやく安定し、
日差しも強まってきます。
昔から、この日に合わせて田畑の準備をするそうです。

また穀雨が終わる頃に八十八夜を迎えます。

いよいよ春から初夏へ向かう季節になりました。
この穀雨の恵みを受けて
山野は5月の美しい新緑の準備をしているのですね。

梅若(うめわか)の涙雨(なみだあめ)

2014-4-15 UP

4月15日  梅若(うめわか)の涙雨(なみだあめ)

旧暦3月15日の江戸は
雨になることが多かったといいます。

この日に降る雨を
「梅若の涙雨」と言っていました。

謡曲「隅田川」の梅若丸は、
大変頭の良い稚児でしたが、寺院内での争いに悩み
京都の寺をこっそり抜け出したところ、
人買いに誘拐されてしまいます。
東国へ連れていかれる途中に病気になり
隅田川のほとりに捨てられます。
それを哀れんだ土地の人達の、手当ての甲斐も虚しく
梅若は3月15日に息を引き取ります。

たずねきて問はば答えよ都鳥
すみだ川原の露と消えぬと

我が子の死を知った母はこの地で剃髪し、妙亀尼と名乗り
庵を立てて念仏三昧の日々を送ります。
それから3年後、池の水に映る我が子の姿をみてそのまま飛び込み
死んでしまったといいます。

現在も隅田川のほとりには梅若を祀る木母寺に
梅若塚が建てられています。