10月 17日(月)茶の花

2016-10-17 UP

10月 17日(月)茶の花
ご機嫌よろしゅうございます。

晩秋から冬にかけて、お茶の木に
白く可愛らしい花が咲きます。
爽やかな香りが秋の風にのって運ばれます。

しかし原因は不明ですが、お茶の木は花が多いと
翌年の作柄がよくないといわれ、茶農家の方には
あまり喜ばれないようです。
茶の木はツバキ科の常緑低木で、開花後一年
かけて果実が成熟し、翌年秋に3個の種子ができます。
この種子の寿命は短く、夏を越すと70~80%は
発芽力を失うといいます。

そのため栄西禅師が宋から茶の種子を伝えた際
いったん肥前国背振山に仮播種し、数年後に
取れた種子を栂尾の明恵上人に譲り渡したと
考えられています。
このため佐賀県と京都の二箇所に日本最古と
言われる茶園が存在するのだそうです。

5月 9日(月)宗家道場の床の間拝見

2016-5-9 UP

5月 9日(月)宗家道場の床の間拝見

 

ご機嫌よろしゅうございます。

色とりどりの花達に目を楽しませてもらった後

次に目に飛び込んでくるのは清々しい新緑の青

季節は次第に春から初夏へと移りゆきます。

茶の湯ではそんな季節の動きをとらえ

床の間にその自然の姿が映し出されます。

5月1日は八十八夜でした。

この八十八夜についてはまた後日改めてお話したいと思います。

5月2

床  紅心宗慶宗匠筆 龍門登鯉

 

花  燕子花

花入 硝子 ポーランド

 

こちらの掛物は、端午の節句に因んだ画題

鯉の滝登りです。

「魚が三段の滝を登りきると昇天して龍になる」

という中国の故事に基づいています。

鯉のぼりを立てる風習や、「登竜門」という言葉も

この故事によるものです。

紅心宗慶宗匠が昭和丙申歳正月、男子出生を夢見、

描かれ(同年九月、宗実家元誕生)、

翌年、初節句の茶会に用いられました。

 

4月25日(月)藤の花

2016-4-25 UP

4月25日(月)藤の花

ご機嫌よろしゅうございます。
桜が咲き、散っていく姿に人々が
目を奪われている頃、少しづつ少しづつ
己の花を咲かせる準備をしているのが「藤」です.
茶の湯では、その咲き始める一寸前の
藤の姿を切りとって「袋藤」として
床の間に飾り愛でます。

また、藤の花が咲き始め、風になびく様をたとえた
言葉に「藤波」があります。
遠州公が「藤波」を銘につけている茶道具が
いくつかあります。

瀬戸金華山窯茶入「藤波」
「かくてこそみまくほしけれ万代を
かけて忍べる藤波も花」
( 2014年 4月26日 メルマガ参照)
竹一重切花入
「ちはやぶるかもの社のふじ波は
かけてわするるときのなきかな」

たおやかに垂れるフジの花姿は、
華やかな中に気品を感じさせてくれます。

3月25日(金)能と茶の湯

2016-3-25 UP

3月25日(金)能と茶の湯
「桜川」

ご機嫌よろしゅうございます。
先週は桜川をご紹介しました。

この桜川の名を持つ茶道具に、
西村道仁作とされる釜があります。
千少庵が愛用したといわれているもので

胴は面取し、面の角に細かい玉縁を
めぐらし、肩から胴ににかけて斜線がかけられ
籠目としています。

釜の下の方には桜の花が二輪
あしらわれています。

また、必ずしも能にちなんでというわけでは
ありませんが、「桜川」と名をもつ道具で
有名なのは大阪の藤田美術館所蔵の
古染付形物水指です。
形物とはその形と文様に一種の定形が
あるという意味です。
見込に陰陽の桜花、外に波の絵があり
水がたたえられると、桜花がうかびます、

3月 18日(金)能と茶の湯

2016-3-18 UP

3月 18日(金)能と茶の湯
「桜川」

ご機嫌よろしゅうございます。

春の訪れを感じ、桜の便りを心待ちに
している近頃。
今日は「桜川」をご紹介します。

九州の日向国、現在の宮崎県の桜の馬場
ここに母ひとり子ひとりの貧しい家がありました。
その子・桜子は、母の労苦に心を痛め、
東国方の人商人にわが身を売ります。
人商人が届けた手紙から桜子の身売りを知った母は、
悲しみに心を乱し、桜子の行方を尋ねる旅に出ます。

それから三年
遠く常陸国(茨城県)の桜川は春の盛りを迎えています。
桜子は磯辺寺に弟子入りしており、
師僧と共に花の名所の桜川に花見にでかけます。

折しも母は長旅の末、この桜川にたどり着いた
ところでした。母は狂女となって
川面に散る桜の花びらを網で掬い、狂う有様を
見せていました。
師僧がわけを聞くと、母は別れた子・桜子に
縁のある花を粗末に出来ないと語ります。
そして九州からはるばるこの東国まで、
我が子を探してやって来たことを語り、
落花に誘われるように桜子への想いを募らせ、
狂乱の極みとなります。

僧は母子を引き合わせ、母はその子が
桜子であるとわかり、正気に戻って嬉し涙を流し、
親子は連れ立って帰ります。

母子の深い情愛を謡いつつ、
また舞台や名前、季節、心理描写などを
「桜」を主軸に据えながら美しく切ない叙情を
表現されている点も見所です。

この名前を持った茶道具に古染付 桜川 水指等があります。

10月 12日(月)秋の七草

2015-10-12 UP

10月 12日(月)

秋の七草

ご機嫌よろしゅうございます。 春に七草があるように 秋にも秋の七草があります。 この秋の七草を山上憶良が詠んだ歌が 万葉集に載っています。 秋の野に 咲きたる花を指折り(およびをり) かき数ふれば  七種(ななくさ)の花   萩の花 尾花葛花 撫子の花   女郎花 また藤袴   朝貌(あさがお)の花 春は食べて楽しむ七草、 秋は観て楽しむ七草とも言われますが、 昔から  萩は垣根に使われ 尾花(すすき)は屋根に葺く材料に、 葛からはでんぷんをとり 撫子は種にある利尿作用が 女郎花(おみなえし)と桔梗は咳の薬に 藤袴は乾燥させて寝床にいれ、 香りを楽しみました。 先人の知恵のつまった七草です。

8月 31日 (月)撫子(なでしこ)

2015-8-31 UP

8月 31日 (月)撫子(なでしこ)

ご機嫌よろしゅうございます。

二十四節気の処暑を過ぎ、暦の上では
夏の暑さも収まり秋への準備が始まる頃です。

秋の七草にも数えられる「撫子」は、
茶花として風炉の時期に活躍する可憐な花です。

「撫でし子」の名の通り、愛らしく、撫でるように
してかわいがる子(女性)というところから
ついたとされています。

うるはしみ 我が思ふ君は なでしこが
花になそへて 見れど飽かぬかも

なでしこが 花見るごとに 娘子らが
笑まひのにほひ 思ほゆるかも

など万葉集には愛しい女性にその面影を重ねる歌が
多く詠まれています。
この撫子は、現在で言う河原撫子を指していました。
中国から渡来した唐撫子(石竹)に対して、
在来種を大和撫子と呼ぶのだそうです。

茶花でも、撫子だと思っていると
実は石竹だったということが時々あります。

しかしどちらも可憐で、夏の暑さを和らげ
秋の気配をさせてくれる可愛い花です。

6月 15日(月)おたくさ

2015-6-15 UP

6月 15日(月)おたくさ
ご機嫌よろしゅうございます。

梅雨時、雨にうたれて
一層色鮮やかに映える紫陽花が見事です。

この紫陽花別名を「おたくさ」と
呼びます。和菓子屋さんでも
紫陽花の和菓子に「おたくさ」という銘が
つけられたものをご覧になったことも
あるのではないでしょうか?

この名前、実はシーボルトが関係しています。

出島のオランダ商館医であったシーボルト
この地でお滝さんという女性と出会い、
いねという娘をもうけ幸せな日々を送ります。
そして彼は日本の紫陽花を大変気に入っていました。
しかし、スパイ容疑をかけられ、国外追放の身となって
最愛の人と引き裂かれてしまいます。

彼は、大好きなあじさいに最愛の「小滝さん」の名から
「オタクサ」と学名をつけ、ヨーロッパに紹介しました。

この「おたくさ」の名には、シーボルト最愛の
女性への深い想いがこめられていたのでした。

ちなみにお滝とシーボルトの間に生まれた
いねさんは、大変な苦労の末医学の道に進み
日本初の女医で産科医となったそうです。

6月 1日(月)毒月と端午の節句

2015-6-1 UP

6月 1日(月)毒月と端午の節句

ご機嫌よろしゅうございます。今日から六月にはいりました。六月二十日は旧暦の端午の節句にあたります。この由来については諸説あります。

旧暦の五月には古代中国で「毒月」という異称があります。日に日に気温も上昇し、湿度も増すことから細菌も繁殖しやすくなり、疫病の蔓延する恐れなどがあるためで、「悪月」ともいわれるそうです。日本でもこの毒を封じるためか、五月五日の節句に野山に出て薬草を採集する「薬猟」(くすりがり)が行われていました。この日に収薬すると「百病を治すべし」と信じられていました。古くは朝廷でこの節句に「薬玉(くすだま)」をかけ、香袋を下げ邪気を払いました。また菖蒲もその薬効から悪疫を除去するとされ、家の軒に差したり、湯に入れて菖蒲湯にする風習が生まれました。ちなみにこの菖蒲は、皆さんよくご存知のあの綺麗な花の咲く菖蒲とは別の種類でサトイモ科の植物で香りのある植物です。

5月 18日 (月) 都忘れ

2015-5-18 UP

5月 18日 (月) 都忘れ

ご機嫌よろしゅうございます。

五月になり、草木も穏やかな季節に
可愛らしい花を次々と咲かせてくれます。

茶の湯の花も風炉の季節には椿から草花へ
その主役をうつします。

春から初夏にかけて、濃紫・紅・白色の小さな花を
咲かせる「都忘れ」も、風炉の季節を彩る茶花の一つです。
キク科の可愛らしい小さな花で
江戸時代から茶花、庭の下草として栽培され、
様々な園芸品種が作られてきました。

しかしこの「都忘れ」
なんだか切ない名前に感じられませんか?

この名は、承久の乱後、佐渡に流された
順徳天皇(1197~1242)が、この花を見て、

いかにして 契りおきけん 白菊を
都忘れと 名付くるも憂し

と詠んだことに由来すると言われています。
小さな菊を御所の周辺に植え、愛でていた順徳天皇。
特に父・後鳥羽上皇が白菊を好んだといわれ、
配流の島で、父帝が愛した白菊に似た花を「都忘れ」
と名付けて愛着することを、いかなる因果の巡り合わせ
であろうと嘆いています。
実際天皇がご覧になったのは、今日私たちが呼ぶ「都忘れ」
とは、実は異なった花だとも言われていますが
よく似た小さく可憐な花であったようです。

在島二十一年、歌道と仏道の中に歳月を過ごし
四十六歳の若さでお亡くなりになります。
都を想う順徳天皇のお心がこの小さな花に込められています。