五世 宗香

2014-12-16 UP

12月 16日 五世 宗香

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州流五世正峯宗香公のご命日にあたります。

元禄三年(1690)三世宗実公の三男として生まれます。
五歳の時に父が他界
九歳で将軍綱吉の御小姓となり、
翌年の崩御まで仕えます。

二十四歳の時には、兄の四世宗瑞公が他界したため
その遺領を継ぐことになります。

小堀家を継いでからは
家継・吉宗・家重の三代に勤仕
若年寄として、幕府で活躍し、
遠州公以来の小堀家の家名を大いに高めます。

12月 16日 七十一歳で亡くなります。

 討ち入り

2014-12-14 UP

12月 14日 討ち入り

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は赤穂浪士討ち入りの日。

ご存知の方も多いかと思いますが、
この討ち入りの日には茶の湯も深い関係があります。

町人になりすまし、吉良家出入りの茶人
山田宗偏に入門した赤穂浪士の大高源吾が、
師から吉良邸での茶会の日にちを聞き出し、
吉良上野介の討ち入りが決行されたといわれています。

山田宗偏は、千利休の孫、千宗旦の弟子で
宗旦四天王に数えられる茶人でした。

この討ち入りの陣に、水屋に置かれていた桂籠を上野介の首代わり
として白布にくるみ槍に刺して四十七人が行進したという
エピソードがあります。
因みにその逸話を証明するかの如く、御影にある
香雪美術館所蔵の桂籠には槍をさした様な穴が開いています。

(※正しくは宗偏のにんべんはぎょうにんべん)

沢庵和尚

2014-12-11 UP

12月11日 沢庵和尚

ご機嫌よろしゅうございます。

今日はたくあん漬けで知られる
沢庵 宗彭(たくあん そうほう)和尚を
ご紹介します。
天正元年(1573)12月1日に生まれ、
但馬国出石(いずし)にうまれます。
現在の兵庫県豊岡市あたりです。

徳川幕府の朝廷への圧力が増す中
起きた紫衣事件で出羽国に流罪となり、
その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。
書画・詩文に通じ、茶の湯にも親しみ
徳川家光をはじめ、多くの大名や貴族
からの帰依を受けます。

遠州公も、師である春屋宗園との縁から
沢庵和尚とも深い交流を持ち、
茶禅一味の追求をしていきます。

正保2年(1646)2月11日
に亡くなられます。

細川三斎(ほそかわさんさい)

2014-12-2 UP

12月 2日 細川三斎(ほそかわさんさい)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は利休七哲に一人に数えられる
細川三斎についてご紹介します。

永禄6年(1563)に細川幽斎のことして生まれます。
この幽斎は武人としてだけでなく教養も一流の
文化人で、三斎も大いに影響を受けたことでしょう。

若い頃から千利休に師事し、天正19年(1591)、
秀吉の勘気に触れ、堺へ蟄居の身となった利休を、
古田織部と三斎の二人だけは、
淀の船着場で利休を見送ります。
茶入、茶杓、花入など利休遺品の多くが
細川家に伝わり、細川家由来の道具とともに
目白の永青文庫に収蔵されています。

独創的な茶を行った織部に対し、
三斎の茶は利休の茶を踏襲した特徴のない
茶ともいわれますが、
「細川茶湯之書」の中で、
茶湯は師の茶を真似て一心不乱に修練すれば
数寄者とも評価されるのだ
と三斎独自の理論を語っています。

南坊録

2014-11-30 UP

11月 30日 南坊録

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は黒田藩立花実山の編著といわれている
「南坊録」のお話しをしたいと思います。
月  日に立花 実山についてお話しをしました。

黒田忠之の江戸参勤の折、共をしていた実山が
利休の言葉を伝える伝書なるものを見せられ、
その後実山が書き写したとされる「南坊録」

以前は利休の教えを伝える第一の書とされていましたが、
記載年号の間違いや、南坊という禅僧の存在の確証がないこと
などから、実山の作った偽書との疑いがもたれていました。

書中あるエピソードのなかには、利休が実際に話したこともあると思われますが
利休没後100年に実山が、乱れた茶の湯の世界を
憂い、実山の思い描く利休像が投影されて
いるとも考えられます。
今後の研究が待たれるところです。

松岡正剛氏の千夜千冊にも「南坊録」について
詳しく書かれています。
よろしければこちらもご覧下さい。

清水道閑(しみずどうかん)

2014-11-29 UP

11月 29日 清水道閑(しみずどうかん)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は安土桃山・江戸初期の茶人である
清水道閑についてご紹介します。

1579年生まれ、遠州公と同じ年になります。
茶湯を遠州公とともに古田織部に学び、その後も
遠州公に茶を学ぶなど深い親交がありました。
その縁から遠州公の推薦で仙台藩に招聘され、
伊達政宗に五百石をもって茶頭に召し抱えられます。

出仕に際して遠州公が、「猿若」という銘の
茶入を贈ったことは有名です。
・  ・
とどめ さる わか れよ君か袖のうちに
我たましひを入れてこそやれ

猿若と呼ばれていた道閑にその言葉を織り込んだ歌を
添えています。

後に藩命で二代目道閑が石州に入門し、
その後石州流清水派が創立します。

慶安元年(1648)の11月29日69才で亡くなります。

近衛信尹

2014-11-25 UP

11月 25日 近衛信尹

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸初期の公家・近衛信尹について
ご紹介したいと思います。

某人気コミックスで、豊徳合体を目指す織部が、
禁中で反徳川に燃える旗頭、前関白・近衛信尹を
「カリ」(今のカレー)でもてなすという
シーンが描かれていました。
この当時「カリ」が既にあったのかは謎ですが…

近衛信尹は関白や左大臣など歴任した重臣で、
後水尾天皇の生母の兄にあたります。

幼少時は武家との交流が深く、また織田信長に
可愛がられたこともあり公家社会に馴染めず
苦しみました。

朝鮮出兵の際、自らも朝鮮に向かおうとし
後陽成天皇の怒りを買い、薩摩に配流されるなど
波乱の多い人生だったようです。

若き日の松花堂昭乗が信尹に仕えていた時期もあります。
能書家として知られ、一派を形成し、近衞流、
または三藐院流と称されます。
本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに
「寛永の三筆」に数えられる人物です。

慶長19年(1614)11月25日に亡くなります。

一休宗純

2014-11-21 UP

11月 21日 一休宗純

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は頓知でおなじみの一休さんについての
お話しをしたいと思います。

ボサボサ頭に、ボーボーの髭
一休宗純は後小松天皇の御落胤とも言われていますが、
室町時代、風狂の精神の下で、形骸化した政治や仏教を
風刺するなど、形式にとらわれない行動と
人間らしい生き方が庶民の評判となります。

侘び茶の創始・村田珠光(じゅこう)も一休の門下になりました。
修行を行う中、「仏法も茶の湯のなかにあり」
という一休の教えを受け「茶禅一味」(茶も禅も同じ)
の悟りに達しました。

茶の湯だけではなく、花や連歌などをする多くの
文化人が一休の下に集い、その影響を受けたと
言われています。

一休が臨終の際に、弟子に
「これから先、どうしようもないくらい
困難なことが起きたら開けなさい。」
と、手紙を渡しました。

いよいよその時、弟子が手紙を開けると
中に書かれていた言葉は
「心配するな。大丈夫。 なんとかなる。」
だったとか。

文明十三年(1481)十一月二十一日の今日
八十八歳で亡くなります。

片桐石州

2014-11-20 UP

11月 20日 片桐石州

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は片桐石州についてお話しします。

天正十一年(1583)生まれ。賤ヶ岳の七本槍の
一人として有名な片桐且元の弟だった貞隆の子
として生まれます。
江戸時代に京都知恩院などの普請奉行を務める間、
京で遠州公や宗旦、金森宗和、松花堂などとの交流
を深め、茶の湯の実力が磨かれていったようです。

若き石州はそれら大先達にその器量を試される
時期であったようで、遠州公や宗旦の茶会に参会し、
石州の茶の師であった、桑山左近の教え以上の話を
ふられたりしていたという話が残っています。
(「松屋会記」「元伯宗旦文書」)   →要確認

後に四代将軍家綱の所望で、点茶の式を行い、
徳川家秘蔵の名物道具の鑑定をする御道具奉行になります。
「石州三百か条」は後の柳営茶道の規範にもなりました。

四代目の将軍茶道指南役ともなり、
遠州公の後継者的役割を果たしました。

延宝元年(1673)六十九歳で亡くなります。

戸川宗積先生

2014-11-18 UP

11月 18日 戸川宗積先生

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はご先代紅心宗慶宗匠の御実弟
戸川宗積先生のご命日です。

道守り 其の身心を空となし
力つくして 今日ぞ散りゆく

ご先代が宗積先生の追悼の文で詠まれた歌です。

紅心宗匠の生死もわからない戦時中、勤めていた
仕事を辞して遠州流茶道の組織作りに力を注ぎました。
そして「茶道遠州会(現・遠州茶道連盟)」の下地を
完成させ、いつ紅心宗匠が戻られてもいいような
形まで作り上げたのです。

紅心宗匠がシベリア抑留から帰国し、昭和25年3月19日に、
音羽護国寺にて「宗慶」襲名披露の大茶会が終わった
夜の祝膳の時、紅心宗匠の御実弟・宗積先生はご両親、
ご姉弟に
「本日から兄弟の縁を切り、
己が命ある限り、遠州流茶道発展向上の
為に全力を尽くします」
と誓われます。
以後、その言葉通り、その身を砕くように
紅心宗匠を、そして遠州茶道宗家を
影となり日向となり支えてこられました。

大変面倒見がよく、修行中だった職方や道具屋さんなどに
よく食事をさせ、共に酒を飲み、そして親身に指導してくださった
と、宗積先生を知る方は、当時を懐かしそうに思い出して
お話しされます。

己の信念を貫き、また遠州流の発展のため、
全力を注がれた、先生のお人柄が偲ばれます。