向栄会 指物師 井川信斎

2018-8-24 UP

今日は指物師・井川信斎氏をご紹介いたします。
さん井川

茶の湯においての指物師の役割は、水指棚や炉縁、八寸など木地のものを作ったり
書付用の内箱、外箱を手掛けます。
格式を重んじ瀟洒なデザインの遠州好みの棚や箱は、
材木の選び方・細工の細部に至るまで高度な技術を必要とされます。
水指棚では、桑や黒柿、紅梅や桜など様々な種類の木の性質と
特徴を見極め、それらを組み合わせていきます。
同じ材料でもその模様の出方は全く異なるので、同じ作品は二度とできないのです。
こういった作品を金釘などを一切使わず、ほぞを彫って合わせていきます。
ほぞ
また、遠州好みの箱は、紐通しが丸穴で袋底です。
袋底の中は紐が通るように溝が彫ってあるという大変手のこんだ箱なのです。
そして木釘も他流派よりも太く、木を割らないように木釘を打つ技術も必要です。
父・初代信斉氏は同郷の川上文斉氏に師事し、
茶の湯指物師としては四代目を継ぎます。
文斉氏の後、遠州流職方を引継ぎ、向栄会の設立当初から名を連ねました。
その父に18歳で師事し修業をはじめ、平成22年に二代信斎を襲名。
「最初は刃物を研ぐことからで、その後は箱かな。
全ての箱が出来たら技術的には他の物も出来るから。たかが箱されど箱。」
と指物師として出発した始めの頃をお話下さいました。
こういった遠州流独特の技術を保持し、後世に伝える職方の魂が吹き込まれた
作品達にじっと目をやると、その想いが物言わず語り掛けてきてくれるようです

向栄会 表具師 表具久生

2018-8-23 UP

ご機嫌よろしゅうございます。今日は掛物などの表装をする

表具師・表具久生氏のご紹介をします。
表具さん

表具久生氏は慶応大学工学部中退後、父である表具師加麗堂三代目、

表具弥三次氏に師事。

 表具家は、加賀百万石の十三代目・前田斎泰公から名字帯刀を許され、

「表具」を名乗るようになります。

以来、古書画、古屏風の修理を能くする伝統を受け継いできました。

表具師の仕事は、掛物をつくるうえでなくてはならない仕事ですが、

資料に残るのはその掛物の中身や、名物裂といった表装された中身

表具という言葉や表具師の名前自体、

記録上登場することはなかなかありません。

しかしながら、掛物の中身を引き立てる裂の組み合わせや、配色など

深い知識と高い技術を持つ表具師がいなければ、

掛物はその本来の価値を存分に発揮することはできず、

その印象は色あせてしまいます。

久生氏の父・弥三次氏は、遠州流茶道の点初などお祝いの際に決まって

「高砂」などの謡を披露してくださいました。これも掛物に謡の内容がよく使われることから始めたと聞きました。

 床の間にかけられる掛物には、表立っては語られない表具師の

高い心意気が詰まった道具なのです。

向栄会 釜師 根来琢三

2018-8-22 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
根来さん

今日は釜師の根来琢三氏をご紹介いたします。

先祖は和歌山に住み、江戸時代には紀州藩の鉄砲隊をしていた

武家の流れをくむ根来氏。

その根来氏が、祖父・実三の代で釜師となり、二代茂昌氏、

そして琢三氏で三代目。

実三氏が東京で鋳金工芸作家であり、東京美術学校で指導をしていた

香取秀真氏から、11世宗明宗匠を紹介され、

遠州流職方としてのお出入りがはじまりました。

琢三氏が初めて釜を作ったのは高校3年生。

玉川大学芸術学科金属工芸コースで金属工芸の基礎を学び、

大学三年から釜をつくりだし本格的に釜の制作を始めたのは

大学卒業後二十二歳、以来一度も就職した経験がないので、

ボーナス時の世の皆様が羨ましいとおっしゃる根来さん。

祖父・実三氏の頃から横浜の寺家町で釜を作っています。

釜を作るために大量に炭を消費するのですが、

その炭を生産する寺家の環境が適していたようです。

現在、釜をつくる家も神奈川県では根来氏を含めて二軒しかありません。

その高い技術を要する釜の作り手は年々減る一方で、

「釜一つ あれば茶の湯はなるのを…」

と利休百首にもあります通り

茶の湯をするには欠かせない道具です。

向栄会 数寄屋 宇佐見忠一

2018-8-21 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
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本日から10月の向栄会展まで、お一人ずつ職方をご紹介していきます。

まず最初にご紹介する方は向栄会会長を務める藤森工務店の宇佐見忠一氏です。

藤森工務店は昭和の名工とうたわれた藤森明豊斉の意志を受け継いだ

数寄屋建築を専門とする工務店です。

護国寺・五島美術館・根津美術館・箱根彫刻の森美術館等などのお茶室を手掛けており、

現在の宗家道場に建てられた成趣庵も、御先代の意向を受けて

藤森工務店が施工しました。

宇佐見氏は、大学卒業後藤森工務店に入社。

遠州流茶道は宗積先生に師事し、数々の数寄屋建築に携わってこられました。

昨年の3月には上田卓聖氏に社長を一任し、

自身は会長として現在も後身の指導をされるなどご活躍中です。

綺麗さびを体現するには、お茶の道具だけでは完成しません。

遠州公の目指した茶の湯の世界を演出する、一番大きな装置が茶室といえます。

茶陶や掛物等たくさんの役者達が共鳴しあいながら、

茶室という空間の中でドラマチックな展開が繰り広げられ、

茶の湯の世界がより深く豊かなものになっていきます。

〇職方さんに質問!

数寄屋建築の数寄屋とはどういう意味でしょうか?

茶室を「数寄屋」とも言ったりしますがその定義は難しいものです。

建築の歴史の中でその意味合いも変化していきましたが、

「数寄」の言葉通り、「好き」に通じ、定石の建築方法と離れ、

その方のお好みで建てるといった意味合いもあります。

また数寄屋建築では角材ではなく丸太を主役とする建物でもあります。

向栄会

2018-8-20 UP

ご機嫌よろしゅうございます。

遠州流では毎年、全国の各支部が担当し、その場へ門人が一堂に集まる

「全国大会」という大きな行事があります。

今年の担当は東京支部。

そして、その東京支部の全国大会に向栄会が釜をかけます。

向栄会は遠州流の好みの道具を作る職方達の集まり。

ご先代紅心宗慶宗匠が戦争からお帰りになられた後、
御舎弟の戸川宗積先生が職方を組織して向栄会を作られました。

そして、その職方が日頃より研鑽を積み作り上げた作品を
披露する向栄会展が数年に一度催されます。

そこでメールマガジンでは、10月の向栄会展まで、

遠州公縁の茶陶のお話しを少しお休みしまして、来月8月から

向栄会職方の方々をお一人ずつご紹介してまいります。

また皆様からいただきましたお道具に関する質問も

ご紹介していきたいと思っております。
お道具について、菓子・呉服についての疑問ありましたら
メールをお送りください。

どうぞお楽しみに。

遠州公ゆかりの茶陶「高取焼」⑤

2018-8-3 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
本日八山氏のインタビュー最終回です。
八山プロフィール画像
最後になってしまいましたが、
この場を借りまして改めて皆様に
御礼を述べさせてください。
昨年の九州北部豪雨では多大なるご支援
・お力添えを賜りまして深く御礼申し上げます。
おかげをもちまして、新たな窯も築窯し
火入れも間近となりました。
私本人も何かが変わったと言葉では表現
できませんが、いつかご高覧をいただき
作品を通して語り合えることを
心より願っております。

○御家元からの提言
遠州公以来の綺麗さびを象徴する高取焼の真髄を
究めるように重ね重ね精進を希望致します。

遠州公ゆかりの茶陶「高取焼」④

2018-8-2 UP

話が全く違う方向に行ってしまいましたが、
遠州高取の特徴についてかいつまんで
お話をさせて頂きます。
まずは高取と言えば茶入ですが、
この地小石原鼓窯はお茶入窯とも
呼ばれるほど多くの作品が作られました。
高取初期の茶入はろくろから切り離す時の
指跡を残しており、糸切も唐物切であった
ものが、遠州公の指導以後は指跡は
きれいに削られ和物切となります。
寸法も古瀬戸に比べると小ぶりとし、
三寸を超えることがないようになります。
口と糸切寸法を同寸法とすることで
バランスがよくなります。
織部時代の好みは下張(竹形)のような
どっしりとした形を数多く作っておりましたが、
上部の肩の張った造形に好みが変化していきました。
また耳などつけることによって、
雅さや愛らしさの表現をし平和な時代の
象徴ともいえるものを好みとされたのでありましょう。
これは遠州髙取という言ってみればブランド化であり、
徳川時代を象徴するような器づくりを
指導されたのだと思われます。
師匠である織部の美意識とは正反対のシンメトリーを
美しいとしたところは当時の茶の湯道具としては
とても新しい感性であったことでしょう。
何より茶の湯の道具つくりで大切なところは
潔さといえるのではないでしょうか。
見た目だけなら3年も励めば似たようなものは出来ます。
しかしその一太刀にかける剣士のような其の心が
なければ似て非なるものとなってしまいます。
日々精進するしかありません。

遠州公ゆかりの茶陶「高取焼」③

2018-8-1 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
インタビューの続きです。

初代が日本で窯を築いた場所は山間部にあり、
土を求めてというよりふるさとに似た景観を
探したのではないかと感じます。
そのようなことから初代は南出身、
山間部に育ち日本人の美意識を反映した器は
作っていたわけではなく、特殊な器である
祭器のみの陶工であったと思われます。
祭器を作っていたからといって、陶工で
あったかどうかは不明ではありますが。
日本人の美意識ということで高麗茶碗に関して
いくつか私の感じるままに申し上げますと、
例えば熊川(会寧)茶碗はもとは小ぶりな
鉢のような形であった物を見て、茶碗として
使用しやすい深さに作らせたのが真熊川茶碗
であり、鏡を小さくしたり砂目跡をつけたり
は皆お茶人の美意識でありましょう。
呉器などにつく4つの指跡の釉薬の抜けなどは
無造作の演出であり、粉引などの火間
(釉抜け)や高台から突き出ていく玄悦の
かんな削りなど同じ感性であり不足の美
ということを意識した作りだと思われます。
数多くの目跡も景色であり、または注文主を
明確にするための窯しるしであったのかもしれません。
初代はこのような注文茶碗を作っていた
窯場にはいなかったと思われます。