継続 その二

2021-5-1 UP

 今月も先月に引き続き、継続ということについて書いてみようと思う。

 あらためて継続を大辞林では

 一、前からの状態が続くこと。また続けること。

 二、受け継ぐこと。継承。

 とあり、当然のことながら、二の意味の継承は私にとって、この家に生まれた時から逃れることのできない運命のようなものではあるが、あまりそれを強く感じたり、悲壮感を持ったりしたことはない。むしろ継承すること自体は、自分にとっての天命ととらえて前向きに生きてきている。したがって私にとっては、一の方つまり、続けるという意味の方が結構問題なのである。

 というのは、私の性格上の問題かもしれない。私は、自分がこうやりたい、あるいはこうありたいと思ったことには、とことん納得がいくまで取り組む方である。それは世の中で大切であるとか、そうでないとか、意義深いとか、無駄であるとかいう評価にはまったく関係がない。自分が知りたいと思えばわかるまで調べ続ける。もうこのあたりで、というわけにはいかない。これは良い側面がある一方で、そこまでの思いがないと、ごく普通の、努力を伴わないような行動でも、続ける意欲が持てないのである。続けておけばいいのになぁと思っても、体が動かないことがあり、これは悪い面ということになる。

 この弱点をカバーする効果があると考えられるものが、ルーティンである。習慣化によって日々の違いや変化を感じたり、あるいは安定による安心を得たりということがその目的となるので、行なうということそのものより、その結果を即座に知ることで続く可能性が高い。

 そこでいま私は、なにを毎日続けているかを改めて問うことにする。

 起床して第一にするのは、血圧と脈を計ること。これは50歳を過ぎてからの習慣で、さらにコロナ禍のいま、体温測定も加わった。これらは数値が出るのでわかりやすい。その後身支度を簡単に整え、流祖、歴代に五供〔ごくう〕をお供えし、お経をあげる。これは以前、先代の読経の声の大小で、隣にいる私がその日の調子などを判断していたのと同じことをしているのである。そして昨年3月から始まったのが剣道の素振りである。愛用の竹刀で五種類の素振りを百七十本。自粛期間中に娘二人と息子(現在は禅寺で修行中のため不在)と一緒に、いまでは一人しかいない日でも(これが一番つらい)なんとか継続している。ご時勢もあり近隣のこともあるので、大きな気合の声は出さないが、肩の上下、足腰の動きなど、身体チェックには大いに役立っている。

 こうしてみると人にはそれぞれ続けていることがたくさんあり、大小はあるとはいえ、なにかしらの意味を持っていることがわかる。

 続けることは生きること。私にとって継続とはそういうものである。