続・手取りまして拝見

2023-5-1 UP

 新緑の青葉に清々しさを感じる毎日をむかえる頃と相なった。例年のことながら私は、桜の開花に世の中が一喜一憂する三、四月より、いまの季節、茶道でいえば初風炉の頃の方が好きである。点前座に風炉を据えて真直ぐに向いて点前をする。その潔さが、遠州流茶道のキレイ・キッパの形にも通じ、加えて私自身の性分にもぴったりと合致する気がする。

 さて過日、日本列島はワールド・ベースボール・クラシック2023の優勝に、沸きに沸いた。これほどに日本中が一つのことに喜びを共有するのは久しぶりではないか。そこには多くのドラマや秘められたストーリーもあった。このことについてはいずれ茶道に紐づけて書いてみようと思っている。

 先月号で茶道具の拝見について書いたが、さらに加えてみたい。まず、亭主の思いを知るという点であるが、これはその道具がなぜ使用されているかという意味を知るうえで最も重要なことである。招かれた客側としては、たとえば本席の掛物や茶入や茶碗を拝見したときに、自分なりに亭主の想いを推量するものである。特に正客ともなれば、亭主と主だって話をする立場にあるので、当然、頭を働かす。招かれた茶会に、もともとテーマが示されていれば、それほど難しくはないといえるし、お祝いとか、口切とか名残りなどの季節等も、わかりやすい。遠州流には、歌銘という方法がある。遠州公が茶入の銘をつけるときは、その印象、姿形や手に入れるまでの経緯であったり、新しいものであれば制作過程での考え方などから、和歌を選ぶので、当然客も理解が深まる。しかしときには、季節の全く違っている銘が茶会に使われているときがある。こういう場面に出会ったときこそ、亭主の話をよく聞いてその想いを理解することが、主客の心の交わりであり、茶の湯本来の目的なのである。

 私は茶事に招かれたあと、茶会記を必ず記録することにしている。以前は帰宅してすぐに書いていた。特に気になったものは絵を描いて自分の感じた特徴をメモする。いまは便利になったので、帰りの車や電車のなかで、スマホに会記を書く。当然、全部覚えているわけでもなく、少々忘れることもある。ここで私が昔からしているのは、その物の周辺の景色を頭のなかに描くということ。小さな見方では付属物となる。つまり茶入の仕覆とか、牙蓋とか箱書きから主体を思い出す。大きい見方は床の間の全体の風景、右・左になにがあったかなど、周辺から中央に記憶を手繰り寄せて、自分の思い出したものに到るようにしている。

 こう考えてみると、いささかオーバーにいえば、茶道具の拝見という行為も、私たちの人生の歩みに関わるといえるのではないか。

 ピンポイントで物を見、周辺を見て大局を考える。私は常に茶の湯の方法と生活をリンクして毎日を過ごそうと努めている。