我慢

2020-8-1 UP

 葉月を迎える前に、世の中の状況が好転していることを願っていたが、残念ながら、いまだコロナ収束とはいかないようである。それでも国内においては、諸外国に比べ感染者や死亡者の数が少ないほうである。このことが国民の油断とならないことを祈るばかりである。私達は、五月の自粛要請に対して、法的な拘束力のないなか、比較的従順に行動を抑制してきた。それが、今かえって心配である。政府を始め、政治は経済優先である。そのことは、緊急事態宣言の解除の仕方や、自粛要請・休業要請の解除のありさまを見れば明らかである。基準をもうけながら、それを満たさないうちに解除ありきの舵を切ることになにも疑問を持たないのは、いかがなものか。物事には筋というものがある。杓子定規で融通がきかないのも困ったものではあるが、どうも最近の国の方向性には懸念している。

 さて先月号では、自粛中、家の中に滞在しているなかでしていたことをあれこれと書かせていただいた。しかしながら、そこにはまだ書き残したことも多くあった。

 一日のなかで時間がとれれば、やはり私は好きな映画を見ることにしていた。最近はほぼ新作に近いものでも、容易に見ることができる。また昔の、それこそ私が生まれる以前の映画でも、簡単に見られるのには、うれしさよりも驚くばかりである。若い時に、あの映画を見たいと思っても、上映の機会がなく、何年、いや何十年越しに、ようやくといったことがしばしばあった。いまはその苦労もないので、喜ぶ反面、なにかありがたみが薄れるのも事実である。四月あたりからは、テレビ番組も軒並みに新番組が収録ができなくなり、再放送ばかりになった。私はいうまでもなく、誰よりもテレビっ子という表現がピタッとくる人間である。したがって、古い映画やテレビドラマ等を今の自分の視点で見られたのは、不幸中の幸いともいえる。

 私の見方というのは、単純に、そのストーリーを追うというものではない。あるときは役者その人そのものの昔と今の比較を楽しむ。以前はそれほどとは思っていなかった演技に、今はハッとさせられることや、その逆もある。役者だけでなく、監督やプロデューサーなどのスタッフについても、今トップの人が三〇年前の映画ではとても小さな名前で、エンドロールに登場しているのを発見するのも面白い。たとえ有名な映画であっても、結末を全く反対に記憶していることもときにはある。そんななか、やはりご贔屓のチャップリンや、ヒッチコック、三船敏郎などの映画を見ると、これが五〇年前、六〇年前に作られていたことに、改めて感動するのである。

 前号にも述べたとおり、今、まさしく新しい時代に向けて私達は力強く、あきらめず歩まなくてはならない。そこには、多少の忍耐、我慢が伴うのは覚悟しなければならないだろう。私達は手を携えて今の苦難を乗り越えてゆきたい。