11月 20日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-11-20 UP

11月 20日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(2)

ご機嫌よろしゅうございます。
先週に引き続きまして今日は「道の記 下り」を
ご紹介します。

「下り」が記された寛永十九年(1642)は
先日ご紹介した遠州公の江戸四年詰めが始まる
年でした。
「徳川実記・大猷院記」には五月二十六日に
将軍に参謁したという記録があります。

その江戸行きの前に、遠州公は江月和尚や京都所司代
などの親しい人を招いて、名残を惜しむかのように
「在中庵」や「飛鳥川」茶入などで茶会を催しています。

この旅が親しい人達との今生の別れとなる
と感じていたのではとも思える、
寂しさの感じられる節々もあり、
今一度京都へ戻りたいと願う心が読み取れます。

心を共にした友人たち、松花堂、長闇堂は既に
この世におらず、江月和尚も遠州公が
江戸に出府中の寛永二十年、十一月に
この世を去っています。

11月 18日(水)遠州流茶道の点法

2015-11-18 UP

11月  18日(水)遠州流茶道の点法
「茶事を自分なりに」

ご機嫌よろしゅうございます。

気のおけない友人知人、普段お世話になっている方を
お招きして行う茶事は、とても楽しいものです。
しかし、難しい決まりごとや固定観念に囚われ
茶事は茶室で、立派で道具ななければならないと
自分には縁がないと思っていらっしゃいませんか?
確かに正式な茶事を経験することは、
その茶事本来の意味を知るうえでも貴重な経験ですが、
お茶事を行う一番の目的は、大切な方をおもてなし
すること。その心があれば、
たとえ茶室や高価な道具がなくとも、
工夫次第で自分なりの茶事ができるはず。
そしてお客様と亭主として、
ご自分が普段お稽古で学ばれていることを
大いに生かして、自分ならではのお茶事をしてみては
いかがでしょうか?

11月 6日(金)遠州公所縁の地を巡って

2015-11-16 UP

11月  6日(金)遠州公所縁の地を巡って
「遠州の四年詰め」

ご機嫌よろしゅうございます。
寛永十九年(1642)六十四歳の十月

将軍家光のお召しに応じ、お茶を献じます。
これより正保二年まで足掛け四年江戸に
留まったと言われています。
世に「遠州四年詰め」と呼ばれています。

しかし、近年この四年詰めでは、
茶の湯の指導者としてだけでなく、
優れた官僚としても手腕を発揮していた
ことが分かってきました。
当時全国的な飢饉にみまわれ、その対応に追われて
いた幕府は、知恵伊豆と言われていた松平伊豆守信綱を中心に、
畿内の農村掌握の第一人者であった
遠州公を寛永十九年五月二十一日に寛永飢饉対策奉行
として要請し、連日評定所にて協議を行いました。
それにより、飢民の救済、根本的な農村政策の立て直し
のための法令立案などが次々と行われていきました。

江戸に留まる間、遠州公は各地の数寄大名の
求めに応じ、その綺麗さびの茶を伝えたと思われます。
幕僚としても茶人としても、
遠州公の名は今まで以上に広く知られることと
なったのです。

11月 9日(月) 茶の湯と足袋

2015-11-9 UP

11月 9日(月) 茶の湯と足袋

ご機嫌よろしゅうございます。

明後日11月11日は靴下の日なのだとか。
これは日本靴下協会が1993年に制定しており、
わりと新しい記念日です。
靴下を2足並べた時の形が11 11に見えること
から考えられたそうです。

さて茶の湯では白い靴下を履くのは、着物で
足袋をはくのと同様の考え方からで、
素足は失礼と習います。

しかし、昔は風炉の時期は素足、炉の時期は
足袋を履いていたようです。
その足袋も天正時代位には木綿の白足袋が
必需品として挙げられますが、常用されていたのは
革足袋でした。
江戸時代にはそれまで主流だった革足袋が廃れていきます。

また明治時代には紺の足袋といえば、
書生の代名詞にも挙げられ、汚れの目立たない
紺足袋は、男性の日常品でしたが、
千宗旦の時代にも既に存在して、
「コンノ足袋茶湯ニハキテモヨシ」と、
侘び茶人には茶湯へ履いていくのが
許されていたようです。

10月26日(月)村雨(むらさめ)

2015-10-26 UP

10月26日(月)村雨(むらさめ)

村雨の 露もまだひぬ 槇(まき)の葉に

霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

寂蓮法師

ご機嫌よろしゅうございます。
秋の過ごしやすい気候では、時々にわか雨が
降ることがあります。この秋の突然の雨を
村雨や時雨といったりします。
雨の多い日本ならではの表現です。

さて、先ほどの歌はにわか雨が過ぎた後、
まだ乾ききらない槇の葉のあたりに
霧が立ち上っている、
秋の夕暮れの景色を歌っています。
静かな、そして寂しさの感じられる秋の夕暮れの
光景がとても趣深く、日本画のような描写です。

この歌を銘とする茶入が、
瀬戸金華山玉柏手の「村雨」で、
下から上に霧が立ち昇るような景色があるところから
遠州公が命銘したものです。
胴が締まった玉柏手で形状は本歌に酷似しています。
胴の中程がややくびれた筒形は、
唐物にはない瀬戸独自の形です。

10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って

2015-10-23 UP

10月23日(金) 遠州公所縁の地を巡って
「遠州公と宇治」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は茶の湯にとってかかせない抹茶の生産地
宇治と上林家についてご紹介します。

遠州公は、元和元年(1615)、大阪の陣の後
上方郡代として、また元和九年には伏見奉行として
宇治の地に密接な関わりを持っていました。

また遠州公は御茶吟味役としても、宇治に重要な
関係がありました。
遠州公が、今年お勧めの御茶を試飲して
選ぶと、そのお茶は「将軍お好み」として、
将軍の近臣や大名からの注文が殺到します。

宇治には昔から多くの茶師がいましたが、
優れた技術力を持って上林家が台頭し、また
家康との関係からも上林家は重要視され、
江戸時代には宇治代官となります。
伏見奉行である遠州公はこの隣接する宇治代官
も監察の対象でした。

政治的にも、また茶の湯の面でも宇治に密接な
関わりを持っていた遠州公の茶会には
上林一族をはじめ、多くの宇治茶師や畿内の
政治・経済・文化的中心人物が登場しています。

10月 14日 (水)遠州流茶道の点法

2015-10-14 UP

10月 14日 (水)遠州流茶道の点法
「大名物(おおめいぶつ)」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は大名物の茶入についてお話しします。
遠州流茶道では盆点法の中でも
大名物・中興名物の扱いの二種類があります。

大名物とは
「茶道具の位付の中で御物を含む
最高位の道具の称。
大名物の呼称が一般化するのは十八世紀末で、
それを定着させたのは松平不昧の『古今名物類聚』
である。
…遠州以後の名物である中興名物とそれ以前の
大名物の二種に名物を規定した。…
(角川茶道大辞典)」
とされていますが、識者によって見解は異なり、
範囲は明確ではありません。
しかい、遠州流点法に「大名物扱い」と「中興名物の扱い」がありますので、
その違いは遠州公の選定を一つの境にしていると考えられます。

大名物の茶入を使用する点法では
その扱いも通常の点法とは別格に扱われます。

10月 9日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-10-9 UP

10月 9日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「品川林中茶屋」

ご機嫌よろしゅうございます。

寛永十五年(1638)、家光が大徳寺百五十三世
澤庵宗彭のために東海寺を建立します。
この建物のうち、客殿と数寄屋、そして庭園の造営
を遠州公が手がけました。
その庭は後世江戸第一の庭と絶賛されるものとなりました。

この東海寺には遠州公にまつわるもうひとつの
エピソードがあります。
寛永二十年(1643)三月十四日、将軍家光が
東海寺に御成になりました。
池には丸い島が三つ浮かび、その内の一つの島には
丸石が置かれ、そこから小さい松が一尺ほど
出ていました。
この石に名をつけよとの家光の命。
澤庵が「天の羽衣」「無心草」とお答えしても
将軍の意にかないません。
そこで遠州公が「万年石」と一声あげました。
品川御殿にある杉の大木を、家光が「千年杉」と
名付けていたことを踏まえての名でした。
将軍は大変お喜びになり、自分の着ていた羽織を
遠州公に与えたといわれています。

遠州公が手がけた建物や庭
現在ではその姿を目にすることはできませんが、
遠州公が寺に寄贈した天目茶碗(9月16日にご紹介)
が今も寺宝として伝えられています。

9月 30日 (水) 遠州流茶道の点法

2015-9-30 UP

9 30 (水) 遠州流茶道の点法
「相伴(しょうばん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

お茶を頂く際の挨拶で、正客以外の客は
「お相伴させていただきます。」
と挨拶します。
「一緒に頂戴します。」といった意味合いで
使われますが、このお相伴という言葉はもともと
禅僧の常の規則をまとめた、現存最古の清規である
「禅苑清規」から出た言葉で、主の伴をするという
意味からでており、茶の湯では正客以外のものを、
相伴といいます。

また、貴人に相伴の人が同席した場合、
貴人に天目で点てた後、普通の茶碗を持ち出し
相伴の人に飲み回しで点てます。

また、汲み切りといって、湯を汲む時に
過不足ない適量を汲んで茶碗に入れ
釜に湯を戻さないようにします。
これは再び貴人から茶の所望があった場合の為に
相伴用の湯を釜に戻すことは失礼に当たるという
配慮からです。

9月 14日 (月)鯖(さば)

2015-9-14 UP

9月 14日 (月)鯖(さば)

ご機嫌よろしゅうございます。

二十四節気の白露も過ぎ、いよいよ
秋の気配の感じられる頃となってきました。

暑さで疲れのたまった体には、旬の野菜や魚を
いただくことで体に負担をかけず体力を
取り戻していくことができます。

鯖もこの時期美味しくなる食材の一つです。
今日は鯖に関係するお話をご紹介します。

「サバを読む」と昔から諺に使われますが、
この魚の鯖のことを指していることは
皆さんご存知でしょうか?

鯖は鮮度が落ちるのが早いため、水揚げされた鯖を
1匹、2匹と数えていてはせっかくの魚が腐ってしまいます。
そのため、大雑把に10匹、20匹とざっくり数える。
そこから数をいい加減に数える、ごまかすという
意味で使われるようになったのだとか。

そして今と違って冷蔵庫のない時代、
鮮度が落ちやすく、すぐ生臭くなってしまう鯖に
味噌で臭みを消して、濃い味付けで食べていたのが
おなじみの「鯖の味噌煮」の由来なのだそうです。