1月1日 (木) 元旦
皆様
新年あけましておめでとうございます
本年も遠州流茶道は稽古照今・温故知新の精神で
皆様と共に茶の湯の心を伝えてまいりたいと
思っております。
何卒よろしくお願い致します。
さてこのメールマガジン「綺麗さびの日々」
も二年目を迎えることが出来ました。
日頃のご愛読感謝致します。
本年は配信スタイルを月・水・金曜日に変更し
月曜には、四季を通じた便り
水曜には、遠州流のお点法について
金曜には、遠州ゆかりの地を巡って
というテーマを基本に
お送りさせていただきます。
土日には関連イベントの告知もその都度
お伝えしていく予定です。
遠州流門人の皆様にはもちろんのこと
他流でお茶を楽しまれている方や
お茶に興味のある方にも読んでいけいただける
ようなお話をしていきたいと考えておりますので
どうぞお楽しみに。
さて、今年の干支は乙未です。
羊は群れをなして行動するため、
家族の安泰や平和をもたらす縁起物とされているのだとか
今年一年が皆様にとって平和で穏やかな年と
なりますように。
12月 17日 歌銘(うためい)
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が中興名物茶入の選定に際し、
「歌銘」を多くつけたことは、
これまでに何度かお話してまいりました。
その出典は勅撰集を中心に、古典的な
和歌から言葉を選び、つけられています。
雅で洗練された「綺麗さび」を象徴するもの
の一つです。
しかしこの「歌銘」
遠州公が初めて使ったわけではありません。
今のところ一番古い「歌銘」は、
4月28日にご紹介した、義政公の「遅桜」
夏山の 青葉まじりのおそ桜
初花よりもめづらしきかな
といわれています。
しかし、それ以後は遠州公ほどに「歌銘」
を多用した茶人は他にいません。
また、和歌の選び方にも、遠州公は
これまでにない感覚を茶の湯に吹き込んでいます。
11月 21日 一休宗純
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は頓知でおなじみの一休さんについての
お話しをしたいと思います。
ボサボサ頭に、ボーボーの髭
一休宗純は後小松天皇の御落胤とも言われていますが、
室町時代、風狂の精神の下で、形骸化した政治や仏教を
風刺するなど、形式にとらわれない行動と
人間らしい生き方が庶民の評判となります。
侘び茶の創始・村田珠光(じゅこう)も一休の門下になりました。
修行を行う中、「仏法も茶の湯のなかにあり」
という一休の教えを受け「茶禅一味」(茶も禅も同じ)
の悟りに達しました。
茶の湯だけではなく、花や連歌などをする多くの
文化人が一休の下に集い、その影響を受けたと
言われています。
一休が臨終の際に、弟子に
「これから先、どうしようもないくらい
困難なことが起きたら開けなさい。」
と、手紙を渡しました。
いよいよその時、弟子が手紙を開けると
中に書かれていた言葉は
「心配するな。大丈夫。 なんとかなる。」
だったとか。
文明十三年(1481)十一月二十一日の今日
八十八歳で亡くなります。
10月 18日 遠州流全国大会
ご機嫌よろしゅうございます。
今日18日から20日まで
広島・呉・広の三支部担当による
遠州流全国大会が広島にて開催されます。
この大会で、四十八回目を迎える全国大会
記念すべき第一回は、昭和40年6月
青森支部で開催された東北大会です。
その後万国博覧会などの理由で開催されない年が
2年ほどあった年を除き、2014年現在に至るまで
毎年、各地の支部でこの全国大会は行われてきました。
今回の大会の観光は安芸の宮島を参拝する予定です。
お家元とご一緒に名所を移動し
お近くでお話しできる貴重な機会で、
お茶会とはまたちがった楽しさがあります。
10月 13日 顕彰会講演会
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は飯田橋のしごとセンターにて
「遠州の憧れた定家の世界」
をテーマに講演会が行われます。
遠州公と定家については、既にこの
メールマガジンで何度か触れてまいりましたが
定家様の第一人者であった遠州公と定家との
関係を、國學院大学 文学部教授の
豊島 秀範 氏 が、詳しくお話ししてくださいます。
月刊「遠州」にて「狭衣物語」を連載されていた
先生で、ご専門は中古、中世文学で特に和歌や日記
を研究されてます。
明日はその講演会の模様をお伝えする予定です。
講演会参加ご希望の方は、
顕彰会までご連絡ください。
9月 26日 鷺(さぎ)の絵
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は鷺の絵のお話をいたします。
鷺の絵は、松屋三名物の一つです。
奈良の松屋は漆屋を称した塗り師の家で
その茶を村田珠光に学びました。
鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、
利休が「数寄の極意」としたこともあって
名だたる茶人はこぞってこの絵を松屋に拝見にいきました。
遠州公の師、古田織部
は利休に「数寄の極意」をたずねたところ
利休は松屋の鷺の絵を挙げられ
翌日、織部は直ちに馬で奈良に向かい
その鷺の絵を拝見したというエピソードもあります。
遠州公の父、新介正次は当時松屋の茶会に赴いたり、
自宅の茶会に招くなど親交を深めていました。
遠州公は父に連れられて、文禄3年2月3日、16歳の時に
この絵を拝見しています。
残念ながら現在は焼失し、見ることはできません。
8月 29日 遠州公の白
ご機嫌よろしゅうございます。
8月8日に、遠州公が抹茶の製法を
「白茶」に戻したお話をいたしました。
そして織部の緑
これには茶人の好みが反映されています。
それぞれの茶人の好みをシンプルに色で表すとするなら
利休の「黒」
織部の「緑」
遠州の「白」
とお家元は表現しています。
全てを包有する、他の存在を許さない「黒」
己の感性を先鋭に表した「緑」
「黒」も「緑」をも受け入れることのできる「白」
利休、織部の茶は己の精神.主観性を追求するもの。
それに対して
遠州はその日のお客様に合わせて
その好み・趣向を考え、道具の取り合わせを自在に
変えるなど相手の心を映した茶でした。
オリンピック招致で話題となった
「おもてなし」の日本の心ですが、
茶の心、とりわけ
この遠州公の「白」の好みが生きているような気がいたします。
8月8日 遠州公と抹茶
ご機嫌よろしゅうございます。
今日はお抹茶のお話を。
抹茶の銘には「~の昔」「~の白」という名前が
よくつけられているのをご存知でしょうか?
遠州公の師匠である古田織部は、
抹茶の色をヨモギ餅の緑色(青)を見てより鮮やかな色にしようと
抹茶を作る際、茶葉を少し茹でることにしました。
これを「青茶」などと呼びます。
こうすることで見た目は綺麗な緑になるのですが、
香りがなくなり味が多少落ちてしまいます。
そこで遠州公は茹でない以前の製法に戻しました。
この製法で出来た抹茶は「青茶」に比べて白っぽいため
「白茶」と呼ばれました。
現在抹茶として製造されているものはこの「白茶」で
昔の製法に戻ったことから「~の昔」「~の白」
という銘がつけられることが多いというわけです
8月3日 明智光秀(あけちみつひで)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜となりましたので
官兵衛の時代のお話しを。
主君信長に反逆する裏切り者としての
一面が目立つ光秀ですが、文武両道で
和歌・茶道の嗜みも深い文化人でした。
天正十年(1582)
6月に本能寺の変の起こる年ですが、
この年の正月7日の朝、
光秀は山上宗二と津田宗及を招き、
茶会を開いています。
床の間には信長直筆の掛物
通常床の間に掛ける掛物は墨跡や唐絵、古歌など
を掛けることが一般的でした。
主君の筆による掛物を飾り、恩恵に感謝していた
ように感じられます。
この数ヶ月後、その主君を討つことになるとは
当時の光秀は思いもよらなかったのではないでしょうか。
【告知】
茶道テディベア 申し込みは以下のURLからお願いします
http://enshuryu.sakura.ne.jp/shop/html/
7月 9日 瓢箪(ひょうたん)
ご機嫌よろしゅうございます。
夏になると瓢箪がその実をつけ、愛嬌ある姿を見せてくれます。
瓢箪はユウガオの変種とされ
「ひさご」とも「ふくべ」とも呼ばれ、
初夏に白い花を咲かせ、実は昔から器などにして親しまれてきました。
縦に割り、水をすくったりもされたことから
柄杓も「ひさぐ」→「ひしゃく」となり
「ひさご」から由来する言葉ともいわれています。
4月 18日にご紹介しました、遠州公の好む形としても
代表的なもので、禅の教えに通づるものがあります。
小堀家歴代の印にも瓢箪の形が用いられているのも
この教えに由来するものと考えられます。
この瓢箪という字、実は「瓢」と「箪」別々のものであることを
ご存知でしょうか?
「箪」は竹で編んだ入れ物で、これにご飯を入れ器として使う
ものでした。
「瓢」には飲み物を。これがいつしか一つになり、
瓢箪という名称になったと考えられます。
「一瓢の飲 一箪の食」という言葉もあります。