水無月

2014-6-3 UP

6月3日 水無月(みなづき)

ご機嫌よろしゅうございます。

6月に入ると和菓子屋さんで
三角形の小豆を散らしたお菓子
を目にしたことはありませんか?
これは水無月というお菓子で、
外郎(ういろう)で氷をかたどったものです。

昔、宮中では氷室(ひむろ)といわれる洞窟のような場所に
氷や雪を冬のうちに保管していました。
ここから氷を取り寄せ、氷を口にして、暑気払いをしていましたが
高級品である氷は、とても庶民の口に入りません。

そのため、麦粉を練り、氷片に見立てて食べたのが「水無月」です。
水無月の三角形は氷室の氷片を表したもので、
上の小豆は氷の中にある泡を表し、
また悪魔払いの意味をもつと言われています。
夏の酷暑を乗り切り、無病息災を祈願するお菓子です。

京都ではこのお菓子を6月30日の「夏越の祓え」でいただく
のが習慣なのだそうです。

2014-6-2 UP

6月2日 菖蒲(あやめ)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は旧暦でいう5月5日 端午の節句です。
5月5日には、邪気を払うとして菖蒲湯や、
宮中の薬玉に菖蒲が用いられました。

しかし、これらは、現在私達が連想する
艶やかな花を咲かせるアヤメ科の菖蒲とは
別の、芋サトイモ科の植物で
両者のうち花の咲く方を「ハナアヤメ」、
サトイモ科の方を「アヤメグサ」といって
区別していました。

邪気払いとして用いるのは、
その葉に特有の香りを持つ「アヤメグサ」の方です。

「ハナアヤメ」のほうも、茶花として用いられることは
昔から少なかったようで茶会記に名を見ることも
あまりありません。

昔から「六日のあやめ、十日の菊」などと言い、
節句(5月5日、9月9日)を過ぎて「役に立たないもの」
の例えなどに挙げられます。

遠州好 「七宝文(しっぽうもん)」

2014-5-30 UP

5月30日 遠州好 「七宝文(しっぽうもん)」

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公の好んだ「七宝文」をご紹介します。

遠州流の、様々なものにこの文様が入っておりますので
皆様にもお馴染みのものと思います。

正しくは「花輪違い」と呼ばれます。
以前は「鶴の丸と丸に卍」が小堀家の紋でしたが
遠州公によって小堀家の定紋と定められたもので、
多くの茶道具にあしらわれています。
七宝文自体を形どって作られているものは唯一
「七宝透蓋置(しっぽうすかしふたおき)」
が好まれています。

またオランダのデルフトへ注文したと思われる
箱書きは「をらむだ筒茶碗」にもこの文様を上部にめぐらせて
いて、今の時代にみてもモダンな茶碗です。

目に青葉 山ほととぎす 初鰹(はつがつお)

2014-5-27 UP

5月 27日    目に青葉 山ほととぎす  初鰹(はつがつお)

目に青葉
山ほととぎす
初鰹

ご機嫌よろしゅうございます。

江戸時代の俳人・山口素堂の
季節感をよく表した句ですが
正しくは「目には青葉…」なのだそうです。

初夏はのぼり鰹(かつお)のシーズン。
南の暖かい海で冬を過ごした鰹が、4~5月にかけて
黒潮に乗り太平洋沿岸を北上します。

「女房を質に入れても」といわれた初鰹ですが
鎌倉で水揚げされた「相州の初鰹」は特に珍重され、
江戸まで早舟で届けたといわれます。

文化九年(1812)には魚河岸に入った17本の鰹のうち、
6本が将軍家へ献上されました。
そして残りを高級料理屋の八百膳と魚屋が
そのうち一本を三代目中村歌右衛門が3両で買い
大部屋の役者に振舞ったという記録が残っており、
こぞって法外な高値で取引される
初鰹は庶民の話題の的となりました。
1両が現在の30万円ぐらい
これは当時の最下級の武士の一年分ほどの給料に
相当するようです。

秀吉の初茶会

2014-5-25 UP

5月25日 秀吉の初茶会

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日
官兵衛の時代のお話を。

官兵衛が有岡城に幽閉されてしまいました。
官兵衛最大の苦難の時です。

この少し前、
三木城の北東の平井山の本陣に入り
三木城の監視に当たっていた秀吉は
天正六年の10月15日に、
堺の津田宗及らを招いて茶会を開きます。
これが秀吉が信長に公許された
最初の茶会のようです。
この時、信長から拝領した乙御前の釜や
月の絵の掛物を使っています。

会席には生の白鳥の汁と飯。
播州の内池に下りてきた白鳥をつかまえたもので、
生きた白鳥を〆て汁に供するのは、
格式の高い料理です。

歴史に詳しい方いらっしゃいましたら
是非このあたりのお話でコメントただけましたら幸いです.

あやめとかきつばた

2014-5-20 UP

5月20日 あやめとかきつばた

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「燕子花」の花のお話を。

いづれあやめかかきつばた

物の区別がつかないことの例えとして用いられる
言葉の通り、一見すると
「あやめ」と「かきつばた」の見分けは難しいですね。

葉の形で言えば
葉の幅がやや広いのが「かきつばた」

花を見れば
花の中側に黄色と紫の虎斑模様があるのが「あやめ」
で「かきつばた」にはそれがなく、黄色だけ
というところで見分けがつきます。

宗実御家元は五月になると好んで用いています。
映画「父は家元」の花を入れるシーンは記憶に新しいところです。

燕子花(かきつばた)

2014-5-19 UP

5月19日 燕子花(かきつばた)

ご機嫌よろしゅうございます。
初夏に咲く花といえば
燕子花が思い浮かびます。

そしてかきつばたといえば
この和歌が浮かぶのではないでしょうか?

からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ

歌の頭に
「かきつばた」と詠みこまれたこの和歌は
伊勢物語「東下り」の有名な和歌です。

失意の主人公が、東国で再出発しようと思い立ち
数人の連れと京から離れ、はるばる旅を続けます。
途中三河の八つ橋というところに行きつき、
かきつばたが大変美しく咲いていました。

着慣れた唐衣のように慣れ親しんだ妻が
(京には)いるにもかかわらず、
はるばる旅をしてきたことよ

と詠むと、皆さめざめと泣き
その涙でもっていた干飯(かれいい・携帯用のご飯)
がふやけてしまったよというおちもあり、
泣かせながら、ほんの少し笑わせます。

この物語は後に人々に広く受け入れられ
尾形光琳の燕子花図屏風など様々な絵画のモチーフとして
好んで使われました。

遠州公の茶の湯

2014-5-18 UP

5月 18日遠州公の茶の湯

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。

十五歳頃に大徳寺春屋宗園禅師に参禅し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。

遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれているものの原形と言われています。

茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。

当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。

これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、水はけをよくし、
美しい反響音がする仕組みを考案しました。

遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。

村田珠光

2014-5-15 UP

5月15日 村田珠光(むらたしゅこう)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日5月15日は村田珠光の命日です。

珠光は応永三十年(1423)に生まれ、文亀二年(1502)の
5月15日に亡くなったといわれています。

少年のころ奈良の称名寺に入り出家
その後30歳の頃に大徳寺の一休和尚に参禅します。

月も雲間のなきは嫌にて候
藁屋に名馬繋ぎたるがよし
など
「冷え枯るる」精神を茶の湯に吹き込み
侘び茶の創始ともいわれています。

それまでは部屋に茶道具を飾り、別の部屋でお茶を点てて
運んでいた茶室が、珠光によって
主客同座となり、床の間に墨跡を掛け、
禅の精神で茶を喫する場に変わっていきます。

珠光という号は剃髪し僧となってからの号なので
俗名である村田と並べて呼ぶのは本来おかしいのですが
現在では、村田珠光と呼ぶのが通例となっています。

卯の花腐し(うのはなくたし)

2014-5-14 UP

5月 14日  卯の花腐し(うのはなくたし)

旧暦四月の異名は卯月といいますが
卯は卯の花(うつぎ)のことで
その頃降り続く長雨のことを
「卯の花腐し」といいます。
卯の花を腐らせるような雨という意味からついた名称です。
適度な湿気は花の美しさを引き立てますが
しばらく雨が続くとクタクタになってしまいます。

和歌では万葉集からこの言葉が見られ、
それほど多くはありませんが近世まで
詠まれ続けました。

卯の花を 腐す霖雨(ながめ)の始水(みづはな)に
寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ児もがも
『万葉集』(霖雨の晴るる日作る歌一首) 大伴家持

卯(う)の花を腐らせる長雨の流れる水に寄ってくる木屑(きくず)のように、
(私に)寄り付いてくれる娘さんがいたらいいのに。

いとどしく 賤しづの庵の いぶせきに
卯の花くたし 五月雨ぞする
『千載集』(五月雨の歌とてよめる) 藤原基俊

ただでさえ卑しい身分の我が家は鬱陶しいというのに
この季節は卯の花を腐らして五月雨が降りつづき
いっそう気分がふさいでしまうことよ。

五月下旬は天気の悪い日が多く、
曇り空は卯の花曇り、卯月ぐもりともいいます。