12月28日 (月)亡羊(ぼうよう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今年も残すところあと4日となりました。
今年の干支は羊でした。
その羊に関する故事で、こんなものがあります。
中国戦国時代、思想家の楊朱の隣家から
羊が一匹逃げました。大勢の者が追いかけますが、
道がいくつも分かれていたために、
取り逃がしてしまいました。
それを聞いた楊朱は、
「学問の道もいくつもに分かれていて、
真の道がわからなくなる」と嘆いたといいます。
このことから
「多岐亡羊」
(岐き多くして羊を亡う)
という言葉が生まれ、
学問の道があまりに幅広いために、
容易に真理をつかむことができないことのたとえ
また、あれかこれかと思案に暮れることのたとえ
に使われるようになりました。
遠州公と親交のあった江戸初期の儒学者
三宅亡羊は名を島といい、寄斎と号しましたが
晩年にこの亡羊の号を用いました。
12月 23日(水)遠州流茶道の点法
「薄茶・後礼(こうれい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は濃茶までお話しました。
今日はお茶事の最後、薄茶についてお話します。
濃茶をいただいた後は席を広間に移して
薄茶をいただきます。
歳暮に広間にうつらず、小間のまま続き薄をすることも
ありますが、通常は遠州流茶道では場所を変えることで、
それまでの雰囲気をガラッと変え、広間では
和やかで気楽な空気を楽しみます。
遠州公は濃茶の後に鎖の間を通って広間に移動し、
精神性を重んじた茶から草創期の書院の茶、
更に古典的な王朝文化を感じられる茶へと、
さながら茶の湯の時代絵巻のように楽しむ空間を
創り上げました。
広間の席に移りましたら、これまでの労を労い、
ご亭主にも薄茶をおすすめして皆で楽しみます。
水菓子などもいただき、芳名帳などがあればここで
記入し、全体で約4時間程度のお茶事もこれで終了です。
お茶事の翌日に再び亭主宅を訪問し
客は後礼といって
茶事のお礼をします。
亭主に感謝の意を伝えましよう。
二世大膳宗慶の道号「喜逢」についてご紹介します。大徳寺江月和尚に参禅していた大膳宗慶が大灯国師の第三百六回の正当忌に当たる寛永十九年(1642)十二月二十二日江月和尚から、その忌日に逢うを喜ぶという意味で「喜逢」という道号が授与されました。そして大灯国師の六百年の大遠忌には11世の宗明宗匠がお献茶を六百五十年には12世宗慶宗匠がそして、昭和五十八年には13世となる宗実家元が献茶をなされ、三代に渡って大灯国師の尊い教えに献茶をもって感謝の意を捧げられ、二百六十年の時を越えて、逢うに喜ぶ日を迎えられたのでした。
12月 16日(水)遠州流茶道の点法
「中立・濃茶」
ご機嫌よろしゅうございます。
炭点法・会席が終わると一度席を改める
中立ちです。
この間に辺りが暗くなっていれば石灯籠に
灯りが燈ります。裏方はこの石灯籠の中に
火をいれ、障子紙を水貼りします。
白い紙の奥にうつる柔らかい光は、暗がりの
露地の景色をより一層美しく引き立ててくれます。
銅鑼の音が聞こえたらいよいよ席入りです。
濃茶では、客は静かにお茶が点つのを待ちます。
通常の稽古ではお菓子をいただいてお茶を飲みますが、
本来は会席の最後にお菓子をいただき、
中立ちで口も清めるので、濃茶の席では
お茶本来の甘み・苦味をじっくり味わいます。
12月 11日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「伏見へ帰る」
ご機嫌よろしゅうございます。
正保二年(1645)遠州公六十七歳
江戸四年詰めの最後の年。
四月に許しを得て伏見へ帰ります。
その際、将軍より立花丸壺の茶入を拝領します。
六十八歳の折には門人や松屋久重に
利休との初めての出会いについて語っています。
「遠州云、十歳の時利休ニ逢たるよ
大和大納言殿へ太閤御成ノ時
給仕を十歳の時仕たるよ 」(甫公伝)
伏見に戻ってからも遠州公は盛んに茶会を催し、
六十七歳で二十一回
六十八歳で三十七回
伏見奉行屋敷において、友人知人を招いています。
また、六十八歳の時にはぶどう酒を茶会に用いた
という記録が残っています。
12月9日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・会席」
ご機嫌よろしゅうございます。
亭主がお客様それぞれに挨拶をして
風炉の場合は会席が、炉の場合は
まず部屋を暖めるため炭点法をはじめます。
炭点法が終わると亭主は
「粗飯を差し上げます」
と挨拶して、お膳を出し会席が始まります。
茶事で振舞われる会席は日本料理の
基礎となっていると言われています。
これまで、自分で調味料をつけていただく
スタイルから、予め調味されて出される
お仕着せ料理へと変化していきます。
また三の膳、五の膳など、豪華で目の前にずらりと
膳が並び、食べきれない程の量が出された本膳料理から
膳が一つに限られ、一つ一つ食べ終わるごとに
そのつど温かい料理が適当なタイミングで運ばれて
食べきれる量のスタイルへと変化していきます。
遠州公も一つ一つの料理を少量にして、食べきれる
料理をお出しするよう工夫しています。
12月7日 (月)針供養
ご機嫌よろしゅうございます。
明日12月8日はお釈迦様が悟りを開いた日
で「臘八」と呼ばれます。
これについては昨年ご紹介しました。
また12月8日は針供養の日でもあります。
この針供養の日は
関西と関東では日にちが異なり
関東では2月8日
関西では12月8日に行われるのが
一般的なようです。
この針供養では
折れたりして使えなくなった古い縫い針を
こんにゃくや豆腐などに刺して供養する行事です。
いつも固いものばかり刺している針を
労わる気持ちから、柔らかい蒟蒻や豆腐に刺して
供養するのだそうです。
豊臣秀吉も、織田信長に仕える前の若き頃
縫い針を売る行商をして
旅を続けたと言われています。
12月 2日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・寄付と席入」
ご機嫌よろしゅうございます。
お茶事当日。
入り口に打ち水され、門があいていたら
準備ができている合図です。お客はそのまま
寄付(よりつき)とよばれる場所に入ります。
寄付で身支度を済ませ、香煎を頂いた後に外腰掛に出て迎付(むかえつけ)に備えます。
ここからは亭主とお客、言葉を交わさず
客は黙礼で応じ、亭主が去ったらお客も移動をはじめます。
露地を進み、蹲(つくばい)で手と口、を清めます。
この露地を歩く間にも
庭の景色に目を向けつつ心を落ち着け、清めながら
茶室へ向かいます。
その後お客が席入りし、躙り口の鍵が閉められる
音が聞こえると、亭主は皆様茶室に入ったことを
察し、ご挨拶にでます。
さて、お客様のうちでちょっと遅刻されると
連絡がはいった時、
宗家では寄付でお香を焚いて
しばしお香を聞きながらお待ちいただくことがあります。
お香を寄付で聞いた場合は香炉の香が
飛ばないように露地を歩いて床の間に飾り、
後で亭主にそのお香のお礼を申し上げます。
11月 30日 (月)木守り
ご機嫌よろしゅうございます。
柿や柚子、様々な自然の恵みをいただき、
収穫する際に、来年の豊作を祈り
木に一つだけ採らずに残しておく実があります。
これを「木守り」といいます。
そしてこの「木守」という銘をもつ茶碗があり、
長次郎七種茶碗に数えられています。
長次郎七種茶碗とは
黒楽の「大黒」「東陽坊」「鉢開」
赤楽の「早船」「臨斎」「検校」「木守」
の七碗をいいます。
この「木守」の銘の由来は、
利休が弟子に長次郎の茶碗を分けた際、
この一碗だけは最後まで手放さなかった
あるいは門人に選ばせ、最後に残った一碗である
または茶碗の姿が柿に似ていることから
など諸説あります。
後に高松藩主松平家に献上され、武者小路千家では
家元襲名披露など重要な茶会の際に松平家から
借りて茶会を行っていましたが、関東大震災で
壊れ、後に破片の一部を使い復元されます。
高松ではこの「木守」の茶碗にちなんだ菓子が
作られており、その模様は渦巻きが描かれています。
これは「木守」茶碗の見込みの渦巻きを模したものだ
そうです。
11月 25日(水)遠州流茶道の点法
「茶事・準備と前礼」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶事の前礼と準備についてご紹介します。
お茶事をしたいと思ったら、まずはテーマを決めて
どんな趣向でするかを考えてみましょう。
華甲のお祝い
自分の好きな道具を披露するため
結婚のお祝い
季節を楽しむ
etc
大体の趣向が決まったら誰をお招きするか
案内状を書きます。
正客から順にお客様の名前・日時・場所などを記します。
巻紙といって一枚の長い紙にそれらの内容を
記し、くるくると丸めたらそれを平らにして
封筒に入れます。
案内状が届いたら、お客様は返事を出し、
当日までに挨拶にいきます。
これは「前礼」と呼ばれるもので、この時に
当日移動にかかる時間を確認し、遅刻のないように
準備すると安心です。
当日は遅くても、早過ぎても失礼なので、
15分前くらいを目安に向かいましょう。