3月17日 (金)茶の湯に見られる文様
「花筏」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「桜」についてご紹介しました。
遠州公も20代の頃、吉野へ花見に訪れていますが、
今日はこの吉野の桜にちなみまして「花筏」の
ご紹介を致します。
桜で有名な吉野の川を下る材木、これを筏に組んで
川を下る際に、桜の花びらがひらひらと降りかかり
筏とともに川を流れる姿は、揺れる恋心にも例えられ
「吉野川の花筏」として歌謡や俳諧に歌われる「雅語」
となっていきました。
遠州公が作庭したと伝わる高台寺。
その秀吉と北政所を祀る霊廟である御霊屋には
天女を想像させる楽器散らし文様、そしてこの花筏文様が
描かれます。吉野には古くより仙郷伝承があることから、
浄土とみなされており、秀吉と北の政所の御霊屋は
浄土を表す装飾を施しています。
「花筏」にはこの高台寺蒔絵の意匠を模した宗旦好
「花筏炉縁」や、永楽保全作「金蘭手花筏文水指」
などの華やかな道具など多数残されています
3月13日(月) 花入「深山木」
ご機嫌よろしゅうございます。
そろそろ待ち焦がれた桜が、その蕾を膨らませる頃。
今日は遠州公作の竹花入「深山木」をご紹介致します。
ごまと縞模様が味わいのある片見替わりの景色の竹を
遠州公が利休の「尺八」と同様根を上にして切り出したものです。
深山木のその梢とも見えざりし
桜は山にあらわれにけり
この歌は「詞花和歌集」所載、作者は鵺退治で有名な源頼政で
「平家物語」や「源平盛衰記」などにも引用されている歌です。
急に開かれた歌会で「深山の花」という題がだされ
人々が詠めずに困っていたところ、頼政がこの歌を詠み、
皆感心したと「平家物語」に記されています。
深山の木々の中にあって、その梢が桜とは分からなかったが、
咲いた花によって、初めて桜とわかるものだなあ。
なんてことない竹と思われていたが、花入となった途端
その美しさにはっと驚かされた
そんな想いが込められているのでしょうか。
この「深山木」については宗実御家元が昨年出版された
著書「茶の湯の五感」の中で、利休の「尺八」とともに
紹介されており、
利休のスパッと切られた尺八花入と異なり、深山木の切り口は
節ぎりぎりで残すところに、武士としての節度節目を
踏まえた遠州公の姿勢が伺えるとおっしゃっています。
12月 25日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「辞世の句」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日で遠州公所縁の地にちなんだお話も
最後となりました。
今日は遠州公の辞世の句をご紹介したいと
思います。
遠州公は六十九歳の二月六日、
伏見奉行屋敷で亡くなりました。
きのふといひ けふとくらして なすことも
なき身のゆめの さむるあけほの
今までの人生と遣り残したこと
その全ての欲を捨て去った時に
人間は人間に取って一番大切なものが
何であるかと言うことを知るのだ。
今までの人生と残した仕事さえ、
亡くなって逝く自分には
曙の中ではかなく覚めてゆく
夢のような気がする.
12月18日(金)遠州公の墓
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公最晩年のご紹介をいたします。
正保四年(1647)六十九歳
二月の六日に伏見奉行屋敷で亡くなります。
この五日前の二月一日には、伏見の茶亭で
茶会を催したと伝えられており、
その命の尽きるまで、茶の湯の生涯でした。
遠州公の墓は
京都市北区の大徳寺孤篷庵、 東京の練馬区の広徳寺,
滋賀県浅井町の孤篷庵にあります。
京都のお墓は先祖が一人づつ個別のお墓に
祀られており
東京のお墓は宗中公以降の十代目以降は
同じお墓に、
近江孤篷庵は七代目までは別々に
祀られているとのことです。
12月 4日(金)遠州公所縁の地を巡って
「孤篷庵」
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永二十年(1643)遠州公六十五歳
の時、手狭になったため、孤篷庵を龍光院から
現在の地へ移しています。
孤篷庵は作事奉行として数々の建築や庭に携わった
遠州公が、自らの好みで設計したものです。
孤篷庵内の茶室「忘筌」は客間として使われ、
遠州公は茶頭に点法をまかして、お客様と
歓談を楽しんだことでしょう。
遠州公が亡くなるのが、
この孤篷庵ができてから二年後。
短い時間でしたが、この自分の好みを
最大限に反映させた茶室で
茶の湯を楽しみました。
残念なことに孤篷庵の建物は、遠州公が亡くなって
から約百五十年後の寛政五年(1793)に焼失。
その後、遠州公を崇敬する松平不昧の指導と援助に
よって、寛政九年~十二年頃に再建されました。
11月27日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」(3)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は道の記下りの一日目
寛永十九年十月八日の日記の一部を
ご紹介します。
「神無月初の八日武府(ぶふ)に赴く為」
洛北の傍より餞別の志を一偈して 消息そへて給ふ
おほやけのことしげきに ひらきもえせで
その日もくれ竹の 伏見のさとを
まだき朝に立て関山をこえて うち出の里に着」
公務が忙しく、出発の前日に江月和尚からいただいた
手紙を読む暇もなく一日すぎてしまった。
「道の記」はこの一文から始まります。
このなかの「ことしげきに…くれ竹の…」
という一節からは、遠州蔵帳所載
遠州公自詠歌銘のついた茶杓
ことしげき 年は一夜に くれ竹の
伏見の里の 春のあけぼの
の歌が思い浮かびます。
11月 6日(金)遠州公所縁の地を巡って
「遠州の四年詰め」
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永十九年(1642)六十四歳の十月
将軍家光のお召しに応じ、お茶を献じます。
これより正保二年まで足掛け四年江戸に
留まったと言われています。
世に「遠州四年詰め」と呼ばれています。
しかし、近年この四年詰めでは、
茶の湯の指導者としてだけでなく、
優れた官僚としても手腕を発揮していた
ことが分かってきました。
当時全国的な飢饉にみまわれ、その対応に追われて
いた幕府は、知恵伊豆と言われていた松平伊豆守信綱を中心に、
畿内の農村掌握の第一人者であった
遠州公を寛永十九年五月二十一日に寛永飢饉対策奉行
として要請し、連日評定所にて協議を行いました。
それにより、飢民の救済、根本的な農村政策の立て直し
のための法令立案などが次々と行われていきました。
江戸に留まる間、遠州公は各地の数寄大名の
求めに応じ、その綺麗さびの茶を伝えたと思われます。
幕僚としても茶人としても、
遠州公の名は今まで以上に広く知られることと
なったのです。
11月 16日(月)空也と茶筅
ご機嫌よろしゅうございます。
三日前の11月13日は空也忌でした。
空也上人は平安時代、諸国を遍歴して踊りながら
念仏を唱えることで庶民に念仏を勧めました。
「寺を出る日を命日とせよ」と遺言したため、
寺を出たこの日が命日になっています。
さてこの空也上人は、当時流行した疫病を
退散させるおまじないとして柳の木を削り
削り花をつくりました。
これが茶筅の原型と言われています。
そして京都の空也堂の僧が、
青竹茶筅を作り、竹の竿にその茶筅を
藁にさしたものをつけて肩に担いで売り歩く
「茶筅売り」という年末の風物がありました。
この茶筅で正月にお茶を点てていただくのが
「大福茶」とよばれるもので、無病息災の
御利益があるといわれました。
この大福茶についてはまた来月ご紹介します。
10月 28日(水) 遠州流茶道の点法
「無盆唐物点(むぼんからものだて)」
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州流茶道では名物の茶入でも肩衝のものは
盆にのせて点法しないことはご紹介しました。
その唐物の点法についてご紹介します。
まず漢作と唐物という語について事典を見てみましょう。
漢作
中国産茶入のうち年代古く上作な類をいい、
単なる唐物と分けている。
いずれも古来重宝され大名物に属している。
唐物
中国茶入の総称
唐物を初代藤四郎が中国から土と薬を持ち帰り焼いたもの
と『古今名物類聚』では定義するが、
その分別は判然としない。…
漢作は宋代を中心とする中国産で、唐物もやや時代は
下るが中国産との見解が強い。…
「角川茶道大辞典」
「漢作唐物」と「唐物」の分類は曖昧で、
その分類は伝来に依っています。
遠州流では無盆唐物と点いう点法があります。
盆を使用しない肩衝の唐物点の際は、
その格調にあった格の高い道具組がされます。
これまでご紹介した天目、相伴付がこの点法に加わると
台天目(袋天目)無盆唐物相伴付
という非常に長くて難しそうなお点法になります。
10月16日 遠州公所縁の地を巡って
「加賀と遠州公」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と加賀の前田家について
ご紹介します。
120万石の大大名であった加賀前田藩ですが、
外様大名であり、監視の厳しい幕府へ反抗の意志なし
との表明として軍事費を極力抑え、財力のほとんどを
文化政策に注ぎました。
三代藩主前田利常は、歴代藩主中傑出した
業績を残した大名です。
その利常の指導役として遠州公が働き、
四代光高に引き継がれ、加賀・金沢に茶の湯を
はじめとする見事な芸術文化が花開きました。
遠州公と前田家では二代藩主利長が遠州公の甥である
小堀重政を、また利常が遠州公の孫にあたる小堀新十郎を
召抱えるなど、茶の湯を通じてできた深い関係がありました。
また熱心に茶の湯指導を仰ぐ利常の書状など
よく残っていますが、他にも庭園についての助言もして
いたようで、遠州公に関わる多くの建物や庭が存在します。
利常は遠州公の一言で大津の別邸で工事中の庭園を取り壊し、
琵琶湖や叡山を借景とした雄大な庭園に造り変え、
遠州公は「これこそ大名のお庭である」とほめたそうです。
また兼六園の一部、金沢城本丸茶室と路地、
兼六園から金沢城二の丸につながる逆サイフォンの技術も、
遠州公の設計といわれています。
そして、隠居した利常は、遠州公に指示を仰ぎ、数奇屋を築き
できあがった書院や数奇屋を「遠州屋敷」と呼んでいました。
金沢の地にも遠州公の綺麗さびの心が根付いていることが
わかります。