高取焼の茶入で有名なものの一つに「横嶽」という銘の茶入があります。
御所持の茶入 一段見事に御座候
染川 秋の夜 いづれもこれには劣り申すべく候…
前廉の二つの御茶入は御割りすてなさるべく候…
(「伏見屋筆記 名物茶器図」)
黒田忠之公が遠州公に茶入を見せて、命銘をお願いしました。遠州公はこの茶入のでき上がりを賞讃し、先週ご紹介した、二つの茶入「秋の夜」「染川」よりも優れているとして、前の二つは割捨ててしまいなさいとまで言っています。
そして九州の名勝横嶽にちなんで銘をつけました。過去火災に遭い、付属物を消失し釉薬の色も多少変わってしまいましたが、形はそのままに現在熱海のMOA美術館に収蔵されています。
11月 11日 光悦会
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は京都で光悦会が開催されます。
光悦会は東京の大師会に並ぶ
日本の代表的な茶会です。
京都鷹峰の光悦寺において11月11,12,13日の3日間
五都の道具商が世話人となって催されます。
この茶会の舞台となる光悦寺は、
大虚山(たいきょざん)と号する日蓮宗のお寺です。
元和元年(1615)本阿弥光悦が、
徳川家康にこの地を与えられ一族、工匠等と移り住み、
芸術郷を築いていきました。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れた
文化人で、光悦の死後、寺(日蓮宗)となりました。
境内には、大虚庵など7つの茶室があります。
さて遠州公と光悦にも縁がございます。
遠州公は寛永13年(1636) 5月21日に、品川林中の御茶屋を新しく造設し、
将軍家光をお迎えして献茶します。
その控えの茶碗として用いられたのが、
光悦に依頼して作製された、膳所光悦と呼ばれている茶碗で、
正式に遠州公が取り上げたのは二碗であると言われています。
11月 8日 遠州公の愛した茶入
「伊予簾(いよすだれ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳帳所載の茶入「伊予簾」
をご紹介します。
この茶入の形が編笠に似て、もの侘びた姿を
していること、また鶉のような斑模様をしている
ことからから遠州公が詞花和歌集 恋下の
逢ふことはまばらに編める伊予簾
いよいよ我をわびさするかな 恵慶法師
の歌の意味をもって銘命されたと言われています。
遠州公の茶会記では、
寛永十四年(1637)十二月二日夜に、江月和尚
松花堂昭乗を招いてこの茶入を用いています。
この茶入に添っている仕服の一つは「伊予簾」と
呼ばれています。
このように、茶入の銘から仕服の呼称がつけられたものを
名物裂と言います。
小堀家の手を離れ、所有者を転々とした後、
現在では昭和美術館の収蔵品となっています。
秀吉が行った朝鮮の役で茶の湯を愛好していたため、、多くの武将が 朝鮮に上陸し帰国の際に、現地の陶工を日本につれ、それぞれ自分の領地で窯を作り、作陶を始めます。 これが御庭焼と称されるものですが、 簡単には茶の湯の心にかなったものが出来ません。 そこでそれらの陶工の指導にあたったのが小堀遠州でした。 遠州公は指導の要請があると、 まず「切形」と呼ばれる型紙を送ります。 陶工はその型紙通りに焼いたものを持参し 京都伏見まで向かうのでした。黒田家の御用窯となった高取焼は その代表的なもので、のちに遠州高取と呼ばれています。 そういった遠州公の好みや指導を受けた窯は、 信楽・伊賀・丹波・膳所・志戸呂・上野・薩摩など数多く 後に「遠州七窯」などと称すようになります。
これは幕末の美術商だった田内梅軒が著した「陶器考」の中で初めて出てくる言葉です。
しかし一般的に「七窯」挙げられるもののうち、古曽部(こそべ)や赤膚(あかはだ)といった窯もその数に数えられていますが、これらは遠州公が亡くなって200年程経ってから出来た茶陶で遠州公の好みの窯とはいえないものまで入っています。遠州公は七窯に限らず、高取、志戸呂、薩摩、上野、膳所、宇治田原等の国焼や、瀬戸、信楽、丹波、伊賀、備前などの古い窯、多くの窯の指導に当たったことがわかっています。
その景色から遠州公が
いまぞ見るのちの玉川たづねきて
いろなる浪の秋の夕暮れ 碧玉集
から銘命したといわれています。遠州公の茶会では特に使用の記録ありませんが、挽家の金字形は遠州公の筆跡で「玉川」とあり、遠州公筆の和歌色紙の掛け物が添っています。遠州公所持の後、土屋相模守、松平弾正、神尾左兵衛、寛政の頃には(1789ー1800)信濃国上田城主松平伊賀守江戸十人衆河村家を経て松浦心月伯爵に伝わり、後に藤原銀次郎に伝わりました。
10月 19日 遠州公の国焼指導
ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりました。
軍師官兵衛に関連して
今日は遠州公の国焼き指導のお話を。
秀吉が行った朝鮮の役で茶の湯を愛好していたため、、多くの武将が
朝鮮に上陸し帰国の際に、現地の陶工を日本につれ、それぞれ自分の領地で釜を作り、作陶を始めます。
これが御庭焼と称されるものですが、
なかなか茶の湯の心にかなったものが出来ません。
そこで注目されたのが遠州公です。
当時既に茶の湯の第一人者として活躍していた
遠州公の伏見奉行屋敷に、自国の領地で御庭焼と
して始めた陶窯で働くナンバーワン陶工を
派遣し指導を受けました。
遠州公は指導の要請があると、
まず「切形」と呼ばれる型紙を送ります。
陶工はその型紙通りに焼いたものを持参し
京都伏見まで向かうのでした。
そういった遠州公の好みや指導を受けた窯を
後に遠州七窯などと称すようになります。
遠州七窯についてはまた後日。
10月11日遠州公の愛した茶入
「吹上文琳(ふきあげぶんりん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「吹上文琳」を
ご紹介します。
遠州公がこの茶入の美しい景色にちなんで
秋風の吹上に立てる白菊は
花かあらぬか波のよするか 古今集
の和歌から命銘したとされています。
蓋箱書付や、仕覆箱書付、外箱はともに
松平不昧公が書付しています。
これは遠州公所持の後、姫路酒井宗雅公に伝わり、
寛政元年(1789)四月二十八日、参勤交代の途中に
駿河蒲原という場所で休んでいたおり、
不昧公と出会い、この茶入を贈与したいきさつが
あります。「雲州蔵帳」にも所載されており、
現在は五島美術館に収蔵されています。
10月 4日 遠州公の愛した茶入
「正木(まさき)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入「正木」をご紹介します。
この茶入は釉薬のかかり具合が片身かわりとなって
おり、その景色の美しさを正木のかづらの
紅葉に見立てて
深山には霰ふるらし
外山なる正木のかづら色つきにけり
古今集
神無月時雨降るらし
佐保山の正木のかづら色まさりゆく
新古今和歌集
このともに同じような歌意を持つ二首の和歌から遠州公がつけた銘
といわれています。
遠州公所持の後、土屋相模守、細川越中守等の手を経て
現在は根津美術館に収蔵されています。
9月 26日 鷺(さぎ)の絵
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は鷺の絵のお話をいたします。
鷺の絵は、松屋三名物の一つです。
奈良の松屋は漆屋を称した塗り師の家で
その茶を村田珠光に学びました。
鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、
利休が「数寄の極意」としたこともあって
名だたる茶人はこぞってこの絵を松屋に拝見にいきました。
遠州公の師、古田織部
は利休に「数寄の極意」をたずねたところ
利休は松屋の鷺の絵を挙げられ
翌日、織部は直ちに馬で奈良に向かい
その鷺の絵を拝見したというエピソードもあります。
遠州公の父、新介正次は当時松屋の茶会に赴いたり、
自宅の茶会に招くなど親交を深めていました。
遠州公は父に連れられて、文禄3年2月3日、16歳の時に
この絵を拝見しています。
残念ながら現在は焼失し、見ることはできません。
廣澤は千年を超える月の名所です。釣鐘型のこの茶入は
澤の池の面に身をなして
見る人もなき秋の夜の月
という古歌にちなんで、遠州公が銘をつけたとされています。これほどの茶入を今まで見る人もなかったという心からの銘とのこと。
この「廣澤」には蓋裏を銀紙で貼ると伝承されています。月の銘を持つ茶入に相応しい趣向です。遠州公自身が茶会で使用した記録は見つからず、内箱に金粉字形で「廣澤」と書き付けています。遠州公所持の後、松平備前守、土屋相模守、朽木近江守昌綱が所有。松平不昧公が羨望したものの手に入れることが出来ず天保の頃、姫路酒井家が所蔵。現在は北村美術館に収蔵されています。