茶の湯に見られる文様「橋」

2017-4-28 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
先週は船をご紹介しましたので、本日は橋を
ご紹介します。

さむしろに 衣かたしき
今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫

この歌を歌銘とした瀬戸真中古窯「橋姫」があります。
遠州公がこの茶入を宇治で見つけ、その成り姿を讃え
この銘をつけたとされています。

この「宇治の橋姫」とは橋の守り神であり女神で
もとは宇治橋の三の間とよばれる欄干に橋姫社が
祀られていましたが、度重なる洪水により現在の
宇治橋西詰に移りました。
ちなみにこの三の間から汲み上げられた水は天下の
名水とされ、秀吉は橋守の通円にこの水を汲ませ茶の湯に
使ったと言われています。(この通円は昨年ご紹介した
狂言「通円」につながります。)
同じく「橋姫」との銘をもつ志野の茶碗が、
東京国立博物館に所蔵されています。
橋の欄干部分が二重線で描かれ、両端に擬宝珠、橋脚が二本
非常にシンプルな絵付けの茶碗です。
この志野や織部とほぼ同時期に流行した画題に「柳橋水車図」
があります。
大きな橋、柳と水車、蛇籠
このデザインは宇治橋の風景を描いており、各派によって
描かれましたが、なかでも長谷川等伯を筆頭とする画師集団
の長谷川派の得意とする画題となります。
茶道具でこの意匠を用いた有名なものに野々村仁清作
「色絵柳橋図水指」(湯木美術館蔵)があります。

4月24日(月)御先代 紅心宗慶宗匠七回忌

2017-4-24 UP

平成23年4月24日
御先代の紅心宗慶宗匠が逝去されました。

終戦後四年間、シベリア抑留生活を送り復員。
昭和37年に遠州茶道宗家家元12世を継承され、
書画、和歌、建築、工芸等様々な分野において
の幅広い活躍
平成13年元旦に宗実御家元に遠州流茶道を
引き継ぎ、後見を務められました。
当代ご存命の内に家元を引き継ぐ形は
当時大変珍しく、その様子はドキュメンタリーで
放映されました。
家元を引退されてからも、展覧会や書の個展を開くなど
その才能を発揮されご活躍されていました。

本日は七回忌にあたり、
昨日23日には御先代を偲び追善のお茶会が宗家道場にて
行われました。

4月 14日(金)茶の湯に見られる文様「ふね」

2017-4-14 UP

ご機嫌よろしゅうございます。

先週は「隅田川」をご紹介しました。「隅田川」の形物香合には
約束として、屋形船が描かれていました。
今日は「ふね」にちなんだお話しをしたいと思います。
お正月二日の夜には、枕の下に「宝船」の絵を置いて寝、
吉夢を願います。宝船には宝や俵が積まれ、七福神が乗り込み
前からよんでも後ろからよんでも同じ音になる回文歌が添えられます。

なかきよの とおのねふりの みなめさめ
なみのりふねの おとのよきかな
(長き夜の遠の睡りの皆目醒め
波乗り船の音の良きかな)

その昔、茶は船によって海を渡り日本に伝わり
その道具の多くも舶載され、名物として伝わることとなりました。
また「御所丸茶碗」は、文禄・慶長の役のとき
島津義弘が、古田織部の切形をもとに朝鮮で焼かせた茶碗
交易の御用船である「御所丸船」に乗せて運ばせて、
秀吉に献上したことに由来する名前と言われています。

また航行する船に水脈を知らせるために立てられる杭を
「澪標(みおつくし)」と呼び、胴の景色をその「澪標」に
見立てた織部焼の茶入には遠州公が「源氏物語」「澪標」の帖の

身をつくし恋ふるしるしにここまでも
めぎりあひけるえには深しな
の歌から命銘しています。また、遠州公が景徳鎮窯に注文したとされる
「祥瑞 洲浜茶碗」には漢詩が口辺を巡り、正面に船が描かれています。

4月 7日(金)茶の湯にみられる文様 「隅田川」

2017-4-7 UP

春のうららの隅田川 上り下りの舟人が
枴の雫も花と散る 眺めを何にたとふべき

明治時代滝廉太郎の作曲した「花」には穏やかな春の風景がうたわれています。

しかしこの隅田川、「伊勢物語」では旅を続ける男が

名にし負はば いざ事問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと

と歌を詠んで涙を流し、梅若伝説をもとにできた狂女能「隅田川」では
人買いに我が子をさらわれ狂女となった女の悲劇が謡われ、物寂しさが感じられます。

さて「形物香合相撲」番付西方四段目には、染付「隅田川香合」があります。
蓋には対角線上に、川に架かる橋を表わしたハジキ(弦状の摘み)がつけられ、
四方の形に柳と屋台舟が描かれており、
屋形舟は隅田川と結びつく約束となります。
東京国立博物館所蔵「蔦細道蒔絵文台硯箱」には文台・硯箱ともに
『伊勢物語』第九段「宇津の山」を意匠化し、蓋の表裏には蔦細道の場面を、
硯箱の身の見込には流水と都鳥により隅田川の場面を表しています。

3月31日(金)茶の湯に見られる文様「柳」

2017-3-31 UP

3月31日(金)茶の湯に見られる文様
「柳」

ご機嫌よろしゅうございます。
春に掛けられる禅語の中に
「柳緑花紅」があります。
以前メルマガでも何度かご紹介しましたが、
自然の姿そのものが真実だということを表す言葉です。

柳が日本に伝えられたのは奈良時代中期といわれています。
魔よけや邪気払いの植物とされ、送別の時には
柳の一枝を添えるという風習もあり、
茶の湯でお正月に結び柳を飾るのもここに由来します。

「柳」と共に描かれるものに、「燕」や「蹴鞠」があります。
「柳と燕」は初夏に着る着物や帯に多くみられる文様。
柳が芽吹く頃、燕が日本にやってくるため
燕と柳の組み合わせは初夏の情景を表すものとし
て共に描かれることが多く、着物や帯の柄に見受けられます。
絵画では中国南宋時代の禅僧・牧谿の筆と伝わる
「柳燕図」
雨滴をふくんだ柳の小枝に風が吹き、枝にしがみつく二羽の
燕と飛び去る一羽の燕が描かれています。

また「柳と蹴鞠」の文様もよく目にするものですが、
朝廷や公家の間で行われた蹴鞠では、
四隅に「柳、桜、楓、松」を配したところから
「柳と蹴鞠」の文様として定着したようです。

3月24日(金)茶の湯に見られる文様「蝶」

2017-3-24 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
菜花畑をひらひらと舞うモンシロチョウ
春の穏やかな景色です。
蝶は秋草や牡丹など様々な組み合わせで描かれます。
また平安時代以降、浄土信仰が盛んになると
蝶は鳥と共に、浄土の使者としても描かれます。
その儚い美しさ、空を舞う様子は死者の霊魂を連想させ、
古代ギリシャではプシュケ(霊魂)と表されていました。
その「死」の象徴を「不滅」の印として戦国の武将は、
その蝶を兜や家紋に使用したと言います。

型物香合番付西前頭三枚目「荘子香合」と呼ばれる香合は、
菱形の染付香合の甲部分に蝶が描かれています。
名前になっている「荘子」とは、
「荘周」であり紀元前4世紀後半の中国戦国時代の思想家
道家思想の大家です。
その「荘子」斉物論編に「胡蝶の夢」というお話があります。
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。
不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
ある日荘周が胡蝶になった夢をみます。
自分が夢の中で蝶になったのか、それとも夢の中で
蝶が自分になったのか、自分と蝶との見定めが
つかなくなったというお話。
このお話から香合の名がついています。

また裂地に見られる蝶
小羽のある虫文は大抵は蝶と呼んでいます。
中国では清代になると蝶が宝尽し文の中にも現れ
アゲハ蝶のような羽に文様のある蝶が現れます。

3月17日 (金)茶の湯に見られる文様 「花筏」

2017-3-17 UP

3月17日 (金)茶の湯に見られる文様
「花筏」

ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「桜」についてご紹介しました。

遠州公も20代の頃、吉野へ花見に訪れていますが、
今日はこの吉野の桜にちなみまして「花筏」の
ご紹介を致します。

桜で有名な吉野の川を下る材木、これを筏に組んで
川を下る際に、桜の花びらがひらひらと降りかかり
筏とともに川を流れる姿は、揺れる恋心にも例えられ
「吉野川の花筏」として歌謡や俳諧に歌われる「雅語」
となっていきました。

遠州公が作庭したと伝わる高台寺。
その秀吉と北政所を祀る霊廟である御霊屋には
天女を想像させる楽器散らし文様、そしてこの花筏文様が
描かれます。吉野には古くより仙郷伝承があることから、
浄土とみなされており、秀吉と北の政所の御霊屋は
浄土を表す装飾を施しています。
「花筏」にはこの高台寺蒔絵の意匠を模した宗旦好
「花筏炉縁」や、永楽保全作「金蘭手花筏文水指」
などの華やかな道具など多数残されています

3月10日(金)茶の湯に見られる文様「桜」

2017-3-10 UP

3月10日(金)茶の湯に見られる文様
「桜」

ご機嫌よろしゅうございます。
3月も半ばを過ぎると、多くの人がその便りを
心待ちにしている桜の開花

雨や風で花を散らされはすまいかと、毎日はらはら
と天気予報をご覧になる方もいらっしゃるのでは
ないでしょうか?
「世の中にたえて桜のなかりせば…」
と在原業平が歌ったように、はるか昔から
日本の人々は桜を愛し、その変化に心躍らせてきました。
その生け方には茶人達の心も悩ませたようで
富貴すぎるということから茶の湯の花として用いた例は
多くありませんが、武野紹鷗は水盤の中に散った花びらを
浮かべた、また古田織部はお客の土産の桜を
いけたという話が残っています。

道具にみられる桜では
古浄味造「桜地紋透木釜」
また、昨年・能「桜川」でご紹介しました「桜川釜」や
「桜川水指」も桜の意匠の代表的なお道具にあたるでしょう。
他、桜にちなんだお道具については次週「花筏」で
ご紹介します。

「石畳文」

2017-2-24 UP

2月 24日(金)茶の湯と文様
「石畳文」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州流茶道に親しまれている方にとっては
馴染み深い「石畳文」をご紹介致します。

正倉院の錦や、平安当時の宮廷で官位の制によって
定められた文様である有職織物にも「石畳文」は
見受けられ、「露文」と表現されていますが、
これは字の如く小さな文様であったようで
遠州緞子として知られる「大石畳唐花七宝文緞子」は
5センチ程の桝に四隅に星を持つ七宝文と、三種の唐花を
配しており、江戸初期日本に渡ってきた際には
大胆且つ新鮮な驚きを当時の人も抱いたことでしょう。
他にも色縞に小石畳を地模様とし、その上に宝尽しを散らした
「伊予簾椴子」。こちらは遠州公が中興名物の伊予簾茶入の
仕服に用いたことからの銘です。
また、星の文様が入った「尊氏金欄」または「白地大徳寺金欄」
とも呼ばれる「釣石畳」などがあります。

石畳文といえば京都にある桂離宮松琴亭の
一の間の床の貼付壁と襖障子が思い浮かびます。
青と白の配色による大胆な大柄石畳文様です。

江戸時代には多様な種類の石畳文様が能装束や小袖に
見られ、当時の流行が伺えます。
江戸時代の中期には京都から江戸に下った歌舞伎役者
佐野川市松が、中村座での初舞台「高野心中」に
小姓粂之助役で着用した袴の柄が石畳の文様でした。
その若衆振りが大変な人気を呼び、それ以降石畳文は
佐野川市松の名をとって市松模様と呼ばれるように
なっていったと言われています。

薩摩茶入 銘「宿の梅」 中興名物

2017-2-20 UP

我が宿の梅の立ち枝や見えつらむ
思ひの他に君がきませる

菅原道真公といえば梅の花。太宰府に左遷となった道真、その道真を追いかけて梅の木が飛んで行ったという「飛び梅伝説」。この故事から、「道真」と「梅」という結びつきが天神信仰の広まりと共に鎌倉中期以降に大衆に浸透します。また「梅」は文様としても多く描かれています。
さて、冒頭ご紹介しました梅の歌にちなんだ銘の茶入「宿の梅」があります。江戸時代初期、薩摩で焼かれたこの茶入は白地の下地が褐色釉のところどころから見え隠れしまるで梅のような景色を作っています。後藤三左衛門所持から「後藤」ともよばれ、遠州公が「拾遺集」の平兼盛の歌から命銘しました。