遠州茶道宗家の歴史

遠州茶道宗家の歴史

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正統を受け継ぐ
遠州茶道宗家の系譜

小堀家本家の嫡流である遠州茶道宗家は、遠州流茶道の流祖・小堀遠州が築いた茶の湯の精神と作法を正しく受け継ぎ、当代十三世・小堀宗実に至るまで、歴代の当主がその伝統を脈々と守り伝えています。遠州茶道宗家が代々正統に伝承されてきたことは、歴代当主が大切に保管してきた茶道具や記録類、さらに幕府など公的機関の資料によっても明確に示されています。『遠州蔵帳』や『数寄記録』といった伝書の編纂、小堀遠州が選定した「中興名物」と称される茶道具、小堀家に伝わる書状・遺品の数々が、その長い歴史を雄弁に物語っています。

小堀家歴代当主の紹介

小堀家略系譜図

小堀遠州には、異母弟として冶左衛門正行(小堀内記政徳の祖)、宗右衛門正長(浅野但馬守の家臣となる)、左馬助仁右衛門正春(小堀縫殿邦明の祖)、助兵衛宗栄(むねなか、松平武蔵守の家臣となる)の4人がいました。仁右衛門正春は、遠州の次弟・正行の没後、最も信頼された弟であり、遠州の作事奉行の協力者として知られるほか、前田家屋敷へは必ず同行したほどです。 遠州没後には、千宗旦が江雲宗竜和尚を通じて左馬助正春に仙畏玄室の就職あっせんを依頼し、正春が加賀前田家への口添えを行ったという記録もあります(『不審庵蔵宗且文書』)。このことからも、正春が遠州を通じて前田家から厚い信頼を得ていたことがわかります。正春はその後、禁裏や仙洞の作事奉行にも起用されています。 また、遠州には六人の男子がいました。嫡子の正之(まさゆき、遠州二男。兄・喜三郎が早世したため嫡子となった)、政尹(まさただ、小堀権十郎政徳の祖で、権十郎篷雪と号し、また浅井姓を称した)、政孝(十左衛門・権左、小堀十兵衛政徒の祖)、政貞(小堀下総守政共の祖。初め政武と称し、雲八郎・下総守・土佐守とも名乗った)、光忠(右京・四郎右衛門で、多羅尾久右衛門光好の養子となる)の六名であり、遠州の没後は嫡子である正之によって家が継承されました。

小堀家略系譜図
小堀家略系譜図

美の象徴、家紋に宿る

小堀家の家紋

「七宝花菱」は小堀家の家紋であり正式には「花輪違い紋」と呼ばれています。もともと小堀家の家紋は、表紋として使われていたものが「鶴の丸」、裏紋として「丸に万字」が使われていました。当時の武家は二つの紋を持ち、用途で使い分けていました。それを、小堀遠州が改めたのが七宝花菱と言われています。小堀家に伝わる道具には「鶴の丸」に形どった蓋置が残っています。小堀遠州の美意識によって定められた家紋は東京国立博物館に所蔵される甲冑にもこの「花輪違い」の文様をあしらっており「武」の中にも小堀遠州ならではの綺麗さびの心を織り込んでいることが伝わってきます。

七宝花菱
七宝花菱

「七宝」は様々な茶道具に

遠州好みと言われる茶道具には七宝文様が使われることがあります。七宝文自体を形どって作られているものは唯一「七宝透蓋置(しっぽうすかしふたおき)」が好まれています。またオランダのデルフトへ注文したと思われる箱書きは「をらむだ筒茶碗」にもこの文様を上部にめぐらせいて、今の時代にみてもモダンな茶碗です。

阿蘭陀筒茶碗
阿蘭陀筒茶碗
阿蘭陀筒茶碗
七宝蒔絵炉縁
阿蘭陀筒茶碗
七宝文釜

名将たちが眠る禅の地

大名の墓は、江戸と領国の両方に存在することがあります。江戸時代、大名は参勤交代で江戸と領国を往復していたため、江戸と領国にそれぞれ墓所を設けることが一般的でした。江戸では、大名屋敷の菩提寺や、大名家ゆかりの寺院に墓所が設けられ、領国では、藩主の居城に近い寺院などに墓所が設けられました。小堀家も同様に、京都大徳寺孤篷庵、滋賀近江孤篷庵、東京練馬廣徳禅寺に墓所があります。

孤篷庵

孤篷庵は、慶長17年(1612年)、黒田長政が創建した大徳寺塔頭・龍光院内において、小堀遠州が江月宗玩を開祖として建立しました。

近江孤篷庵

承応二年(1653年)、二世小堀宗慶(正之)が、亡父・小堀遠州の冥福を祈るとともに、修禅の道場とすべく、孤篷庵の江雲和尚(遠州の甥)を開山に迎えて創建されました。

廣徳禅寺

廣徳禅寺は、小堀家の墓をはじめ、剣法指南役として名高い柳生宗矩・十兵衛・宗冬の柳生三代の墓もあることで知られています。庭園は、先代である第十二世小堀宗慶宗匠が監修しています。

遠州流茶道連盟
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