月の名

2025-8-1 UP

 八月のことを昔から葉月と呼んでいる。旧暦(陰暦)の八月の異名であることはだれでも知っていると思うが、なぜそう呼ぶのかは意外に考えることもなかった。Wikipediaだけでは安心できないので各種辞書などを引いてみて、結局のところ、秋の季節の呼称であることは間違いないと一応は確認した。木の葉が紅葉して落ちることがその名の由来という説もある。ほかにも「桂月」「竹春」などたくさんあるが、意味はほぼ現在の九月ころにあたるので、つまり秋である。

 ここでふり返って考えてみると、月の異名が旧暦由来であるのに、私達は今の暦の月名として使用しているのはなぜなのであろうか?かくいう私も、毎月の茶の湯の花の月名に、この「和風月名」と呼ばれる旧暦名をあたりまえに使っている。正直に言えば矛盾しているのではないかと、本心では毎年六月位になると感じているのである。というのは、五月雨は五月に降る雨ではないし、七夕は夏祭りではないし、天の川も夏空では見ることは難しい。このあたりが私にはどうも引っかかるのである。ところがこの旧暦名は今の新暦にすべて合わないかというと、そうでもないことに気がつく。一月や二月の睦月、如月は意味合いからぴったりに思えなくもないし、三月、四月の弥生、卯月も今の季節とほぼ合致している。九月から一二月までの、長月、神無月、霜月、師走も、あまり違和感がない。どうやら私にとっては、六月水無月から八月葉月までが、どうも違った感じがするのである。それでも、異名を使うのは、なんとなく、これは本当にそうとしか表現できないのであるが、なんとなく風情を感じるからなのだと思う。単純に一、二、三、四……では、現在の異常なまでの温暖化の季節に耐えられない気がする。毎日三五度前後の気温のなかで、いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、等と我慢できないのである。

 私は比較的ものごとをはっきりストレートに言う方である。しかしそうはいってもすべてにおいてそうではない。ことに今の時代はなかなか難しい。日本には「言わぬが花」「沈黙は金」「口は災いのもと」といったことわざがある。しかしこれも時に寄りけりだと思う。言わなければならないことは、きちんと言う。ただし人を傷つけない。このバランスがとても大切な時代になった。そう考えると、私達が学んでいる茶道とは、この微妙なバランスを学ぶために大いに役立つと思う。なぜならば、そこには常に相手の立場を考えて物事にあたるという姿勢があるからである。自己の主張は、その日の取合せや設えで表現し、そしてお客さまの反応をうかがう。この交わりのなかに和を探してゆく。世の中がどう移り変わろうが、人として大切なものが茶道にはある。真夏の暑さで、頭がボーッとなりそうなとき、身体がだるくなったとき、抹茶の一服を喫することで、身も心もリフレッシュされるのである。