皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
元和7年9月22日に江戸を出発した遠州一行は、10月4日にようやく京都に到着しました。
なので本日はこの旅を記した『東海道旅日記 上り』についてお話します。
旅の行程は12泊13日、500キロ。
1日の行程が約9里半(38キロ)、1里1時間と考えて、1日に9時間半ほど歩き続ける、と
いうことで、現代人にとってはかなりの強行軍のように感じられます。
しかし、その旅程を遠州自身が記した『東海道旅日記 上り』には、道中に難所がいくつか登場しますが、様々な人の手を借りて解決し、さらに和歌あり、詩ありと、とても楽しそうに日記は綴られています。
当時の遠州の人間関係を知るうえでとても貴重な資料なのです。
この日記の書かれた元和7年、43歳の遠州は城主のいなくなった丹波福知山の政務沙汰をする他は特別なことはなく、晴れやかな気持ちで旅ができたのではないでしょうか。
その後、この旅日記は、各大名からの書院飾りの一巻としても所望もあったようで、遠州の嫡子大膳宗慶、次男権十郎篷雪、三男十左衛門政貴などそれぞれが、書写しました。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は『潮音堂』の掛物についてお話致します。
寛永8年(1631)10月2日の茶会記に、「掛物 無準」とあります。
「無準」とは「ぶじゅん」と読み、中国の高僧無準師範のことで、遠州の茶会記の場合、『潮音堂』の墨跡のことを指します。
『潮音堂』は、博多の承天寺が創建した際に、無準師範ものとに留学した聖二国師が頂戴したお祝いの寺額です。
後に、京都・東福寺普門院修理のための費用として処分した際に、遠州の手に入ったと言われています。
潮音堂にはこんなエピソードがあります。
出羽国庄内藩主であった酒井忠勝が、ある時遠州の茶会に招かれました。
その時に、忠勝公は潮音堂の額を遠州に懇望するのです。
それに対して遠州は「一字千両」と答えました。
すると忠勝公はすぐに三千両を用意し、持ち帰ったそうです。
ちなみにこの時に、有名な『生野茶入』もしようされておりますが、この話はまたいずれ。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
元和7年(1621)9月22日に江戸を出発し、旅を続ける遠州一行。
9月30日には愛知県の岡崎に到着し、岡崎城主本田康紀の歓待を受けました。
その後、三河国八つ橋へ。
ここに遠州はひとつの楽しみを持っておりました。
それは旅前に、遠州が熟読していた『伊勢物語』に、八つ橋で在原業平が杜若(かきつばた)の歌を詠む場面があったのです。
「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」
先頭の文字を取ると、「か き つ ば た」となり、業平もさらに文章で「いと面白く咲きたり」と記述しておりました。
しかし、遠州がいざ来てみるとあまり咲いていなかったようで、
「昔より いひしきにける ことなれど われらはいかが 今は定めむ」
と狂歌を読んでいます。
もちろん、5月頃に咲く杜若が、この時期に咲かないことを知っていたと思われますが、それでも残念であったということを遠州は狂歌で表しました。
ちなみに『伊勢物語』の八つ橋は現在では正確な位置は分かっておらず、幻の地とされています。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
寛永5年9月26日(1628年10月30日)、遠州は茶会を開いておりました。 客は4人。 菅原織部、二村宗林、徳庵、道志。 特に菅沼定芳が御正客として座していることに着目したいと思います。 ちなみに詰客の道志は「いじいじ塗り」の名手として知られ、遠州に認められた後、将軍家茶碗御用の命を受けるようになり、京都の茶道具頭的な地位を占めるほどになった人物で、遠州の茶会には記録に残る限りでも30回も招かれています。 菅沼定芳は、近江国(滋賀県)の膳所城主で3万1100石を領していました。 遠州の茶会には3度参会。 茶の湯を好んでいたようで、定芳が膳所城主だった頃に、膳所焼は遠州の指導を受けており、それに関する書状も残っています。 この時の茶会記を見ると、遠州は膳所焼の茶碗を使用。 ここに遠州の膳所城主菅原定芳に対するおもてなしの心を見て取ることができます。 旧暦の9月26日は、新暦の10月31日にあたり、床には藤原定家の『初雪ノ歌』が掛かっていました。
皆で雪の風情を楽しんでいたのではないでしょうか。