伏見奉行屋敷の茶室

元和九年(1623)十二月小堀遠州は伏見奉行に任命されます。以後六十九歳で亡くなるまでの二十三年の間この職を勤めることになります。この元和九年の七月には二十歳の家光が三代将軍となりました。
伏見奉行となった小堀遠州はそれまでの奉行屋敷が手狭で不便な場所であったため、豊後橋詰に新しく屋敷をつくります。この新しい奉行屋敷は、奉行所としての機能と、奉行の居宅としての機能を併せ持った建物でした。また他の奉行所と異なり、特徴的なのは数寄屋・鎖の間・小書院・小座敷など。茶の湯で使用する目的で配された部屋が多く配され、茶の湯が単なる趣味的なものではなく伏見奉行としての役職に生かされ、政務と茶の湯が深く交わってていたことが読み取れます。この庭園は伏見城の礎石などを利用して造られたもので、上洛した三代将軍 徳川家光を迎えたとき、この立派な庭園に感心されたといわれています。

その屋敷内に三つの茶室松翠亭・転合庵・成趣庵があります。「松翠亭」は奉行屋敷の東南隅に位置する数寄屋です。この平面図が寛永十八年の松屋会記に記されています。四畳台目で採光に工夫が凝らされていて窓が九箇所、突き上げ窓三箇所、計十二箇所の窓がついています。この「松翠亭」は鎖の間である広間に繋がっていました。現在静岡島田市のふじのくに茶の都ミュージアムに復元されています。別棟として立つ茶屋として「転合庵」と「成趣庵」が後に建てられました。「転合庵」は焼失してしまいましたが、小室屋敷の茶室と同名で移築したものとも考えられます。
「成趣庵」は転合庵よりさらに奥まったところに作られ、家臣の勝田八衛が常に茶室に控え、晩年の遠州公が屋敷内を散策する際にお茶を点てていました。この成趣庵の露地には紅梅が植えられており見頃を迎えると親しい友人を誘っていた手紙が残っています。宗家の茶室もこの「成趣庵」と同名で、やはり露地には見事な紅梅が植えられています。

静岡県島田市の「ふじのくに茶の都ミュージアム」には、小堀遠州の伏見奉行屋敷にあった茶室と、遠州が親交していた松花堂昭乗のために建てた八幡山滝本坊の書院、そして仙洞御所の東庭が、史料に基づいて復元されています。
玄関から書院(対雲閣)、その奥の鎖の間(臨水亭)、鎖の間から池中に張り出して建つ茶屋(向峯居)、さらに鎖の間の奥で畳廊下伝いに連なる数寄屋(友賢庵)という、大きく四つの部分から構成されています。各茶席名は紅心宗慶宗匠が命名しています。
伏見奉行屋敷の中奥の一部を再現した鎖の間・茶屋・数寄屋には、寛永期の装飾的な世界が凝縮されており、遠州の「綺麗さび」を偲ばせてくれます。遠州の茶会においては、数寄屋での茶事の後に鎖の間へ移って後段が振る舞われたことが知られています。数寄屋と鎖の間をつなぐ廊下は畳廊下と勝手廊下の二重になっており、客は数寄屋の給仕口を出て畳廊下伝いに鎖の間へ移動したと伝えられています。
所在地:静岡県島田市金谷3053-2