備中松山城

関ヶ原の戦いで家康の旗本として加わった遠州公の父、新介正次はその功により1万石の加増を受け備中松山城をあずかることになります。そして慶長九年(1604)新介正次が亡くなってからも遠州公が引き続き備中を預かることになります。紙や鉄の生産の盛んなこの地で若き時代、代官として活躍した遠州公。その遠州公の影響は今でもこの街に見ることができます。

標高430mにある備中松山城は、現存天守を持つ山城としては日本一高いお城です。もとは山陰と山陽の要所として、多くの戦乱の舞台となり戦の要としての城の役割をしてきました。遠州公が父・新介正次と共に入国した際には城は長い戦乱により、城郭も建物も未だ修復されず、石垣や土塁が残るのみで荒廃していました。そして泰平の世の到来。遠州公は城の修復を行い、備中松山のシンボルとしての優美な山城に姿を変えました。(後に松山城主となる水谷勝宗も城の修復を行っています。)白い漆喰塗りの壁と黒い腰板の美しい天守は、国の重要文化財にも指定されています。

また現在、御根小屋跡は県立高梁高等学校となっており、県の史跡に指定されています。御根小屋とは、城がけわしい山項に築かれた際、普段の居城となった場所のことを指します。その建物を城壁に囲まれ、遠州公の手がけたといわれる心字池を囲む庭に当時のおもかげを忍ぶことが出来ます。また学校内には茶室が建てられ、多くの生徒がここで茶の湯を学んでいます。