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興福院こんぶいん

興福院 門
興福院(こんぶいん)

奈良市佐保山町にある興福院は、小堀遠州が再建に深く関わった寺院です。もとは平城京右京三条の地にあり、弘文院と称されていましたが、戦国末期には豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の側室である光秀尼(こうしゅうに)が住職を務め、秀吉から200石の寺領を与えられたことで大いに興隆しました。

秀長が1586年に奈良法華寺を訪れた際、接待にあたっていた尼僧・光秀尼が秀長の目に留まり、郡山城に迎え入れられたという逸話が残っています。郡山城に入って還俗した光秀尼は「お藤」と呼ばれるようになりました。秀長の死後は再び比丘尼(びくに)となり、母方の伯父・窪庄伊豆守の妹である自慶院心慶が院主を務める弘文院(後の興福院)へ入寺しました。しかし、1615年の大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、寺は幕府の弾圧を受け、寺領を没収される事態に陥りました。

このとき動いたのが、秀長家老であり、のちに徳川政権下で台頭した藤堂高虎です。高虎は光秀尼やその娘のために尽力し、興福院や京都大光院(秀長の菩提寺)を守りましたが、光秀尼(1623年)と高虎(1630年)の死後、興福院は再び衰退の危機を迎えました。

興福院 方丈
興福院 方丈

その再興に立ち上がったのが、高虎の養女を妻とした小堀遠州です。小堀遠州は若年時に秀長の庇護を受け、千利休・黒田官兵衛・春屋宗園らと交流し、後に徳川家光の信任を得て上方郡代となった文化人でした。1636年には家光から再興の許可と200石の寺領寄進の承認を得て、1642年には本堂を自らの設計で再建しました。正保2年(1645年)の落慶法要では、遠州自筆の「興福院」の扁額が掲げられました。建築には幕府や寺社奉行の許可が必要であったため、松平忠明や堀利重などの名が遠州の書状に見え、寺の再建が準公儀の作事として進められたことがわかります。

遠州流茶道連盟
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