大坂城 千貫櫓・乾櫓
元和六年(1620)、遠州公42歳のとき、大坂の陣で焼失した大坂城の再建に関わりました。この時には城の周縁部の櫓や門の修繕を担当し、奉行として職務を務めています。さらに寛永三年(1626)には天守本丸作事奉行となりました。
大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川幕府は、江戸時代に入って大坂城の再建に着手し、工事は元和6年(1620)に始まり、寛永6年(1629)まで続きました。この再建事業において、遠州は櫓や本丸仮御殿の作事奉行を務めました。
大坂城に現存する当時の建造物が、千貫櫓と乾櫓です。千貫櫓は2階建ての隅櫓で、元和6年(1620)に小堀遠州の設計で建てられました。西の丸庭園の西南隅に位置し、西北隅にある乾櫓とともに、大坂城で最も古い建造物として知られています。千貫櫓の名は、石山本願寺時代に織田信長軍が攻撃を繰り返した際、攻め手が「千貫文払ってでもあの櫓を手に入れたい」と語ったという逸話に由来するとされています。昭和36年(1961)の解体修理では、「元和6年9月13日御はしら立」と墨書された板が発見され、この櫓の上棟式の日付が初めて明らかになりました。
乾櫓も元和6年に遠州の設計で建てられたもので、平面がL字形となり、一階・二階が同じ床面積を持つ総二階造りという珍しい形式の二重櫓です。この上に望楼を載せた形態は、天守閣の原型とされ、櫓の中でも古い形式を示しています。昭和33年(1958)の解体修理では、「元和6年申の九月吉日 ふかくさ 作十郎」とへら書きされた輪違い瓦が発見され、元和年間の創築を裏付ける史料として注目されました。
また令和元年には、小堀遠州が記したとされる大坂城に関する書状が発見されました。この書状には、大坂城が将来的に将軍の居城となる可能性を示唆する記述があり、「大坂幕府構想」を裏付ける史料として注目されています。書状は遠州が義父・藤堂高虎に宛てたもので、日付は大坂城再築工事中の寛永3年(1626)となっています。
さて、2014年と2015年は大坂冬の陣(1614年)・大坂夏の陣(1615年)から数えて400年の節目の年にあたります。このため、「大坂の陣400年」と位置づけ、大坂城を拠点に大阪全域で史実を振り返るさまざまなイベントが開催されました。前年には、大阪城公園内の「一番櫓」「千貫櫓」「多聞櫓」「金蔵」の4箇所が特別公開されました。これらの櫓は大坂の陣で焼失後、徳川幕府によって再建されたもので、このうち「千貫櫓」は遠州公が大坂城作事に携わった際に担当した櫓と伝えられています。大坂城に残る建造物としては、西の丸内にある乾櫓と並んで最も古い建築物です。公開期間中は、櫓の構造や役割、機能を解説する展示が行われ、大坂城築城に大きく貢献した徳川秀忠・藤堂高虎、そして遠州公についても詳しく紹介されました。
所在地 大阪市中央区大阪城1番1号
