東海道旅日記 下りの記【14】 10月10日 『桑名城主』 

2021-7-23 UP

〇桑名城主

桑名の里に到着した遠州を桑名城主が出迎えています。この年の桑名城主はこれまで本田忠政とされてきましたが、松平定綱と改めます。「月刊遠州」令和3年6月号でも松平定綱が紹介されており、定綱にあてた遠州の消息などから定綱と遠州の交友があったことがわかります。

定綱は、徳川家康の異父弟 松平定勝の3男で、1635年から五万石の加増を受けて、大垣藩から桑名藩にはいっています。1万石からスタートした定綱は、加増を希(こいねが)って11万石にまでなりますが、それには改易された福島正則の家臣を受け入れるためだったという話が語られています。定綱は同時代の文化人として知られた遠州をはじめ、木下長嘯子や林羅山らと交流がありました。遠州流が松平家の茶として代々継がれ、寛政の改革で有名な松平定信の代まで伝えられました。定綱と遠州の交友から、遠州流が松平家の茶として代々継がれ、寛政の改革で有名な松平定信の代まで伝えられました。定信自身は遠州流を本にしたお家流を開いたという記録が残っています。

東海道旅日記 下りの記【13】 10月10日 『その手は桑名の…』

2021-7-16 UP

三重県桑名といえば、蛤の名産地です。揖斐(いび)川、長良川、木曽川が伊勢湾に流れ込み、川の水と伊勢湾の水が混じり合って栄養豊富な水域となるため、濃厚な旨味を持つ美味しい蛤が育ちます。かつては殻付きの枯れた松葉や松笠を燃やしながら、蛤を焼いたようです。この焼き蛤は名物として、伊勢参りに訪れた人々から全国にその名が知れ渡ったと言われています。この桑名の地名と蛤を合わせて「その手は桑名の焼き蛤」という洒落言葉が、江戸時代にはすでに使われていました。やじさんきたさんの珍道中『東海道中膝栗毛』のなかでも、二人が桑名でこの焼き蛤を肴に酒を楽しんでいる様子が描かれています。ちなみに、蛤の旬は春先のようですが、桑名のはまぐりの旬は初夏から夏場の8月頃にかけて、美味しい時期です。

東海道旅日記 下りの記【12】 10月10日 訳文

2021-7-2 UP

十日 暁の頃に出発し、桑名の里に着く。城主(松平定綱)の出迎えを受けて、しばらく休息し、語らう。船着場から船頭の声がして
「潮が満ちた!追い風だ!」
というのを聞いて、申の上刻(17時前頃)、城主に大急ぎで暇乞いをして船に乗る。順風に帆を引き、船のゆく事飛ぶ鳥のごときはやさである。ある家の若者が詠んだ歌

ふねにのる 人の齢も追い風に
 いそげば申の おはりにぞつく

熱田の宿の主が出迎えて物語などしながら共に宿に向かい到着。徳川義直公は大樹のごとき御慈非篤く、世間の評判は言うまでもない。御母堂は宗応院と号されていらっしゃる。去る1614年の9月10日に亡くなられた。ちょうど一周忌今日、法要を営まれるために武蔵よりこの国にお帰りになって物忌のお籠りになっていらっしゃると宿の主。このことをお伝えして帰りますとのこと。

つねならぬ 世のならひこそ かなしけれ
 玉のうてなの 住いなれども

このように思いながら宿に到着すると、時は丑の刻、真夜中になっていた。