水口城

2015-9-18 UP

水口は都から伊勢へ通じる交通の要所で中世後期にはすでに町並が形成されていました。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、水口の地は徳川氏の直轄地となり、東海道の宿駅に指定され、徳川家康も度々この地を通行し、水口の寺院などに宿泊していたといいます。三代将軍徳川家光は京都への上洛に先立ち、寛永9年(1632)遠州公を作事奉行に任じて、上洛する際の将軍専用の宿館として、東海道の要衝の地である水口に豪華な本丸御殿を持つ城を築かせます。家光の威光を示すものであったため、遠州公は延べ10万人の大工を動員し、3年がかりで完成しました。将軍家の宿館ふさわしく数寄をこらしたものでその構造は二条城を小さくしたものでした。この御殿は徳川家光上洛の帰途に一度使われただけで、後に水口藩が成立、その居城となりました。寛永十年はこの水口城の他にも、仙洞御所泉水奉行伊庭御茶屋作事奉行、二条城本丸数寄屋作事奉行にあたり、多忙を極めていた時期です。遠州公はこの水口城の現場で直接指揮をとってました。