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京都三条屋敷

 小堀遠州三十七歳の折、弟の治左衛門正行が、三十三歳で小堀遠州の京都の屋敷で亡くなっています。この屋敷は詳しくはわかっていませんが、以前藤堂高虎の所有であったものを小堀遠州が最初の作事奉行になった後陽成院の御所を造営する慶長11年頃に、伏見の六地蔵からでは不便なことから、小堀遠州に譲られたと言われています。

本屋敷は、三条の〇〇・六角越後町屋敷と言われており、伏見の六地蔵宅・奉行屋敷と共に、京都周辺における小堀家所有の屋敷の一つであったとされています。
寛永三年(1626)後水尾天皇の二条城行事に際しては、行幸御殿の造営に尽力し、行幸行事の総指揮を務めました。この行幸は、天皇家との婚戚関係の成立によって徳川家の権威を天下に示すための大行事であったと考えられます。洛中洛外図屏風にも、その様子が描かれております。
遠州はこの行事の前後に、大名・公家など多数の要人を招き、度々茶会を執り行っており、その場所は東海道の延長である三条通りに近い本屋敷であったと思われます。小堀遠州が居住するようになってから徐々に改築が行われ四畳半台目下座床の席が作られていたようです。これまでの研究では、「寛永初之日記」に記された二十四回に渡る小堀遠州の茶会は伏見奉行屋敷の披露茶会と位置付けられてきましたが、深谷信子氏は、寛永三年の将軍二条城行幸の際に行われたものとし、二条城にほど近いこの三条の屋敷で行われた茶会ではないかとしています。
この時期、この界隈は堀川通りで二条城と連なっており、さながら今の霞が関の様相であったのではないかと想像されます。


遠州流茶道連盟
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