孤篷庵
遠州公は慶長十七年(1612)三十四歳、龍光院に江月宗玩を開山として孤篷庵を創設します。この孤篷は二十代の時に春屋宗園禅師から賜った号で以下の偈が残っています。
扁舟聴雨 漂蘆萩間(扁舟雨を聴いて、芦萩の間に漂う)
天若吹霽 合看青山(天もし吹きはらさば、青山を看るべし)
故郷琵琶湖に漂う孤舟にたとえ、いまだ禅において修行の道なかばの状態にある遠州公の姿を、
「天がもし風雨を吹き払ったならば
すがすがしい青山を看ることができる。
すなわち禅の境涯に達することができれば
その道で成功を収められるであろう。」
と将来の遠州公の境涯を看破し、教え導いています。春屋禅師は遠州公が最も深く帰依した師で、「宗甫」「大有」の号も師からいただいています。生涯の茶会において一番多く掛けられた墨跡も春屋禅師であり、正月三が日の掛け物は必ず師の墨跡を掛けたそうです。後、寛永二十年(1643)遠州公六十五歳のおりに、現在の地に孤篷庵を移築し、晩年を過ごすことになります。
寛永二十年(1643)に、遠州公が六十五歳の時、手狭になったため、孤篷庵を龍光院から現在の地へ移しました。孤篷庵は、作事奉行として数々の建築や庭に携わった遠州公が、自らの好みで設計したものです。
孤篷庵内の茶室「忘筌」は客間として用いられ、遠州公は茶頭に点法を任せて、お客様と歓談を楽しんだと伝えられています。遠州公が亡くなったのは、この孤篷庵ができてから二年後です。短い時間ではありましたが、自身の好みを最大限に反映させた茶室で茶の湯を楽しんだとされています。
茶室・忘筌の名は、荘子の「魚を得て筌を忘れ、兎を得て蹄を忘れる」から取られています。筌・蹄は魚や兎を獲る道具のことで、目的を果たした(悟りを得た)なら、それに使った道具や手段は忘れてよいという意味です。十二畳の広々とした茶室の床脇の壁には、遠州直筆の扁額「忘筌」が掛かっています。繊細な砂摺天井で天井を低くし、長押を一線に回すことで、茶の湯になじむ空間を作り出しています。さらに、この茶室は縁先の上半分にだけ障子を入れて空を隠し、路地の風景を切り取って見せるのが特徴の一つです。この景色は舟の胴の間から見た眺めを思わせるもので、「孤篷」(一艘の苫船)のイメージを想起させます。この障子の下は舟入の趣向で、茶室に入る際の躙口の役割も果たしています。
本堂の一端から縁先の大きな沓脱(くつぬぎ)石へは飛石が続きます。この露地を伝って歩けば、人は自然に障子をくぐり、縁先で手水を使うことになります。蹲(つくばい)や躙口がなくても、同じ所作を体験させる工夫がなされています。孤篷庵では、忘筌のほかに書院の直入軒(じきにゅうかえん)、そこから続く茶室・山雲床(さんうんじょう)、そして方丈南庭も見どころになっています。残念ながら、孤篷庵の建物は遠州公の没後約百五十年の寛政五年(1793)に焼失しましたが、その後、遠州公を崇敬する松平不昧の指導と援助によって、寛政九年から十二年ごろに再建されました。
毎年5月には流祖を偲んで、公益財団法人小堀遠州顕彰会主催の遠州忌茶会が開催されています。
