遠州七窯(えんしゅうなながま)
秀吉が行った朝鮮の役で茶の湯を愛好していたため、、多くの武将が 朝鮮に上陸し帰国の際に、現地の陶工を日本につれ、それぞれ自分の領地で窯を作り、作陶を始めます。 これが御庭焼と称されるものですが、 簡単には茶の湯の心にかなったものが出来ません。 そこでそれらの陶工の指導にあたったのが小堀遠州でした。 遠州公は指導の要請があると、 まず「切形」と呼ばれる型紙を送ります。 陶工はその型紙通りに焼いたものを持参し 京都伏見まで向かうのでした。黒田家の御用窯となった高取焼は その代表的なもので、のちに遠州高取と呼ばれています。 そういった遠州公の好みや指導を受けた窯は、 信楽・伊賀・丹波・膳所・志戸呂・上野・薩摩など数多く 後に「遠州七窯」などと称すようになります。
これは幕末の美術商だった田内梅軒が著した「陶器考」の中で初めて出てくる言葉です。
しかし一般的に「七窯」挙げられるもののうち、古曽部(こそべ)や赤膚(あかはだ)といった窯もその数に数えられていますが、これらは遠州公が亡くなって200年程経ってから出来た茶陶で遠州公の好みの窯とはいえないものまで入っています。遠州公は七窯に限らず、高取、志戸呂、薩摩、上野、膳所、宇治田原等の国焼や、瀬戸、信楽、丹波、伊賀、備前などの古い窯、多くの窯の指導に当たったことがわかっています。