湖を船ですすむ遠州一行。湖上からふと目をやれば、趣深い風景が広がっています。情趣を解さない、歌を詠まない供の者に、残念そうな遠州公でした。この近江湖東から八カ所の名所を、中国の「瀟湘八景」になぞらえて選んだものが近江八景です。
これまで、戦国時代から江戸時代にかけて選定されたといわれていましたが、近年では、「寛永の三筆」の一人近衛信尹が、琵琶湖湖畔の膳所城からその眺めを詠み選んだ歌が残されている資料が発見されました。近江の数ある名勝のなかから、瀟湘八景の情景を取り合わせて、膳所城からの眺望を和歌にして詠み、膳所城主に差し上げたという説が有力です。
江戸時代には日本の代表的な名所として多くの人に親しまれ、江戸後期浮世絵師の安藤広重の風景画により広く知られるようになりました。近衛信尹は公家の中でも最高位にある近衛家の中でも偉才人物で「寛永の三筆」数えられる能筆でありました。その養子にあたる信尋は、
やはり能書家で知られ、実は後水尾天皇の弟にあたる人物ですが、遠州公との手紙のやりとりが残っており、当代きっての文化人同士の交流が伺えます。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
遠州の交友はとにかく広い。
将軍や大名だけでなく、商人や医者などの町人たちとも交流があった。
そしてさらには公家、なかでも寛永のルネサンスのリーダーの一人、近衛信尋と懇意にしていた。
慶安2年10月11日は、近衛信尋の命日である。
信尋の父、信伊は寛永の三筆(他は本阿弥光悦・松花堂昭乗)の一人に数えられ、薩摩に流されたりと、波乱に富んだ一生を送っているが、豪放な書風で知られている。
その養子信尋は、実は後水尾天皇の弟であり、二人の兄弟愛は、天皇と大臣という間柄を越えて信頼し合っていた。
もちろん、能筆家としての名も高かった。
こんな書状が残っている。
当時の公家の若君たちは、平和な世に浮かれ、暴れていて、幕府はそんな若君たちを、いつでも取り締まってやる、と眼を光らせていた。
その時も、大宴会が開かれ、それが幕府の知るところとなった。
21歳の信尋は、これが知られては大変と青ざめ、藤堂高虎に弁解の手紙を送っている。
その中で、遠州が登場する。
宴会の最中には、遠州が様子を見に来て、心を配って頂いた、という内容である。
遠州は公家と武家の仲が円滑にいくべく、行動していたのではないだろうか。
その他の信尋の書状にも遠州は登場し、また、遠州の茶会記にも信尋は登場する。
信尋と遠州が利休について会話したことも、『桜山一有筆記』に記録されている。
それはまたいずれ。