各地の寺社などでは、その庭を「遠州作と伝えられています」と解説されていることが多く見受けられます。その全ての真偽は定かではありませんが、それだけ遠州公の当時の影響が強かったことがわかります。そのような「伝遠州作」の庭の中で、この南禅寺は、残された文献等から遠州公作と確認できる数少ない作品の一つです。借景、遠近法、大刈込といった、三次元的な技法を駆使し、別名「虎の子渡し」と呼ばれ、左端の大きな親虎とその横の小さな虎の子とが瀬を渡る様子を表すといわれています。
中国の説話では、虎の児は三頭いれば、一頭は獰猛で、他の児虎を食べてしまうそうです。そのため母虎は川を渡るとき、まず獰猛な児虎を最初に向こう岸に渡して引き返し、次の一頭を連れて渡ります。そしてまた獰猛な児虎を連れて戻り、三頭目の虎を連れてまた川を渡ります。そしてまた引き返して、最後に獰猛な児虎を再び連れて渡るのだそうです。母虎の子を児を想う気持ちが表れた優しく雅雅な印象の庭園です。
南禅寺大方丈 虎の児渡しの庭
7月 10日 (金) 納豆の日
ご機嫌よろしゅうございます。
7月10日は納豆の日とされています。
今日は納豆と茶の湯についてご紹介します。
納豆は鎌倉時代、動物性たんぱく質を
摂ることのできなかった禅宗の僧侶が、
精進料理として、取り入れたもの
といわれています。
江戸時代には納豆は早朝に行商が
売り歩きにきました。
庶民にも広く普及していたようです。
この頃まではまだ醤油も普及しておらず
納豆は調味料的な利用をされ、
汁にすることが多かったようです。
茶の湯に関して言えば
千利休最晩年の天正十八(1590)年から
十九年にかけての100回に及ぶ茶会記を記す
『利休百会記』の中で
天正十八年に7回、茶事の会席において
「納豆汁」を出した記録があります。
秀吉や細川幽斎などの武将にも振舞っています。
天正18年は利休が自刃する前年ですので、
利休の茶の湯も確立された頃
納豆はその精神に叶う食事として会席に利用した
のでしょうか。
6月 5日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城での茶会」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸城で行われた茶会について
ご紹介します。
元和六年(1620)
江戸城で秀忠の茶会に諸事承る
将軍秀忠が行った茶会についての
遠州公の自筆記録が残っています。
年号が記されておらず、明確ではありませんが
遠州公四十三歳の頃には既に将軍秀忠の茶会に
たずさわっていたと考えられ、
織部が亡くなった翌年から元和四年(1618)
の間三十八歳から四十歳の間に
秀忠の将軍茶道指南役になったと思われます。
また元和九年(1623)から寛永九年(1632)の約十年
遠州公四十五歳から五十四歳の頃は
伏見奉行、大坂城や仙洞御所の作事奉行を
兼務し同時に、茶の湯においても
大御所となった秀忠・将軍となった家光の
双方の指南役として活躍し、多忙な日々を送っていた時期でした。
5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って
小室の領地へ
ご機嫌よろしゅうございます。
元和五年(1619)遠州公四十一歳の時
備中国から、近江国に転封となります。
この近江は遠州公の生まれ故郷であり、
浅井郡の小室の地が領地となります。
これから小堀家は七代宗友公まで、
代々小室藩主となります。
遠州公はこの小室の屋敷内に「転合庵」と「養保庵」
という茶屋を設けましたが、多忙な遠州公は
ここにはほとんど住まわず、二つの茶屋も
小室に帰国した際に楽しむために作られた
ようです。
二代宗慶公の時代に陣屋が建設されました。
小室藩の陣屋は、藩主が住まう館と、
それを囲むように家老や家臣団の屋敷が配置され、
藩の政治機構が整えられました。
二代目以降もほとんどこの小室の陣屋に藩主は
おらず、小室藩の実際の治世は家臣達が担っていました。
現在、かつて小室藩の陣屋が置かれていた付近には、
小室藩が祀ったとされる山王社(現日吉神社)や
稲荷社や弥勒堂などの祠堂、家老の和田宇仲の屋敷に
湧き出ていた泉から引かれているという宇仲池など
のみが残っています。
元和四年(1618)遠州公40歳の折、秀忠の末娘・和子の入内が決まり、遠州公はその女御御殿の作事奉行となります。この作事は、何人かの奉行の内の一人として一部分を割り当てられたのではなく、最も格式の高い常御殿や居住所などの重要部分を担当しており、遠州公の作事の技量が高く評価されての任命といえます。
元和六年(1620)に和子は入内し、後水尾天皇の女御となります。寛永四年(1627)には、幕府の政策に耐えかねた後水尾天皇が三十二歳で譲位を決意、寛永六年には譲位されます。
遠州公は天皇の譲位後の住まいとなる仙洞御所の作事と天皇譲位後東福門院となった和子の女院御所も奉行しています。またこの御所は建物が寛永七年に完成した後も庭は未完成で、この作庭に遠州公が任命され、寛永十年から十三年まで三年を費やしました。この時期遠州公は二条城の二の丸作事、水口城伊庭の御茶屋など、毎月作事奉行を仰せつかり四ヶ所も兼務するなど、多忙をきわめます。
現在、京都 大覚寺になる宸殿(重要文化財)は、女御御殿を移築したものと伝わっています。
所在地 京都府京都市右京区嵯峨大沢町4 大覚寺
元和三年(1617)遠州公三十九歳の時、幕府から大阪の天満に屋敷を与えられます。これは同年命じられた伏見城本丸及び書院の作事奉行また河内国の奉行の兼務により、伏見の六地蔵からでは不便なことからの幕府の配慮からでした。
翌年には女御御殿作事奉行にも任命され、また後に大坂城作事にたずさわることにもなりこの大坂の屋敷は重要な拠点となります。
詳細はわかっていませんが、ほぼ正方形の形をした四千坪の敷地に茶室も作られていたようです。この遠州公の屋敷のあった天満木幡町はもともと源融がこの地に伊勢神宮の分祀を祀る
神明社を作ったことが由来の地で、大阪三郷天満組に属していました。
江戸時代、大坂は幕府から派遣された大坂奉行の支配のと、北・南・天満の三組に分けられ、
大阪三郷と呼ばれていました。この三郷では、ある程度の自治が認められていたといいます。
この木幡町の西の一角に遠州公の邸宅がありました。
むかしをば 花橘のなかりせば
何につけてか 思ひ出まし(「後拾遺和歌集」 藤原高遠)
花橘がもしなかったならば、何を手がかりに、
昔を思い出せばよいのか、いや思い出せない。
この歌の銘のついた茶碗があります。遠州蔵帳所載の信楽茶碗です。かけ釉のビードロが見事で小堀遠州の切形をもとに作られたと伝えられいわゆる筆洗形をしており、長辺二方に浅い切り込みをつけ高台は三方に切り込みをつけた割高台風の茶碗です。
ほのかに香る花橘の香りが、昔の想い人を思い出させる。橘は蜜柑の仲間で、「常世の国」の不老長寿の実のなる瑞祥の木とされていました。この橘の香りと懐旧の念を定着させた歌が
さつき待つ花橘の香かげば
むかしの人の袖の香ぞする(「古今集」読み人知らず)
でした。その香りを嗅いだ途端、無意識に人を過去のある場面に引き戻す。そんな甘酸っぱい切なさの感じられる橘の歌です。
行き暮れて木の下陰を宿とせば
花や今宵の主ならまし
中興名物の茶入に薩摩肩衝 「忠度」という銘のものがあります。「忠度」は世阿弥が新作の手本として挙げた能の一つです。平清盛の末弟であった忠度ある日須磨の山里で旅の僧がその木に手向けをする老人と出会います。一夜の宿を乞う僧に、老人はこの花の下ほどの宿があろうかと勧めます。この桜の木は、一の谷の合戦で討ち死にした忠度を弔うために植えられた木でした。そしてその旅の僧の夢に「忠度」が現れ「行き暮れて」の歌を、「千載集」に詠人不知(よみびとしらず)とされた心残りを語るのでした。風流にして剛勇であった忠度のいくさ語りと須磨の浦に花を降らせる若木の桜が美的に調和した名曲です。この忠度が薩摩守だったことから細川三斎が命銘したとされていて、箱書も三斎の筆と言われています。
2月27日 大和郡山での遠州公の出会い
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は大和郡山についてご紹介しました。
今日はその地で遠州公に影響を与えた
いくつかの出会いをご紹介します。
遠州公がこの地に移り住んで
十歳の歳、
六十七歳の利休に出会います。
主君秀長が秀吉の御成の際に茶の湯で
もてなすため、その指導に訪れたのでした。
秀長の小姓であった遠州公は、茶会当日
秀吉の給仕をする大役を果たします。
利休切腹の三年前のことです。
十五歳、元服をした遠州公は
利休・織部と茶道の道を極めた人物が参禅した
春屋宗園の下で修行します。
後二十九歳で「宗甫」、同時期に「孤篷庵」の号
を与えられます。
遠州公の茶会の中で一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師のものです。
そして同じ頃、茶の湯の師として古田織部の
門を叩きます。後に伏見に住まいを移してからは
織部の屋敷のあった木幡まで一キロ程度の
距離になり、一層師弟関係を深めていきます。
十六歳にして、既に松屋三名物の一つ
「鷺の絵」を拝見するなど、若いながらも既に
後の大茶人への道の第一歩を踏み出したのでした。
遠州公が小堀村で産まれ、過ごした時は、そう長くはありません。天正十三年(1585)豊臣秀吉が、弟秀長と共に五千人の家来を連れて大和の郡山城に入城します。遠州公の父である新介も秀長の八老中の一人として城内に屋敷をもらい、遠州公も共に郡山に移り住みます。
遠州公が七歳から十七歳までの約十年間をこの郡山で過ごすこととなります。織田信長の支援を受けた筒井順慶が大和を統一し、天正8年(1580)筒井から郡山に移り、明智光秀の指導で城郭の整備にかかりました。この郡山城と光秀の作った福知山城に共通の特徴があります。
転用石といって城郭の石垣に仏塔や墓石など、多目的で使用されていた石をわざと見えるように、使用したものです。
ところが、本能寺の変から山崎の合戦(ここで洞ヶ峠を決め込むという言葉が生まれます)
順慶の死、後を継いだ定次の伊賀上野へ国替と状況は次々と変化していきます。
秀長が入城する五年前に、織田信長はここ郡山城以外の大和の城を全て取り壊していたため
唯一の城下町であり、更に秀長は奈良での味噌・酒・木材の販売を禁止し、郡山に限る政策を行ったため、郡山は更に栄えていきます。
また、堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地でもありました。ここで遠州公は後の人生を方向付けるいくつかの出会いがありました。