初夏に花を咲かせる花として桐があります。中国の神話では有徳の帝王を讃え現れる鳳凰は梧桐にしか住まず、竹の実しか食べないといいます。これが日本に伝わり、桐が格の高い文様として鳳凰と共に意匠化されていきましたが、ここで鳳凰が棲むとされた梧桐は、日本でいうアオギリという全くの別種で中国では昔どちらも「桐」の文字を使用していたため、この二種が取り違えられたと考えられます。アオギリは小ぶりの小さい黄色い花を咲かせ、梧桐は花序をまっすぐに伸ばし、紫色の花を咲かせます。「枕草子」においても、紫に咲く桐の木の花を風情があると讃え、唐土で鳳凰がこの木だけに棲むというのも格別に素晴らしい」と述べていて、混同されていることがわかります。しかしながら格調の高い文様として浸透していった
桐の文様は、家紋や装飾文様、茶の湯の世界でも多く見ることができます。
すぐに思い浮かぶのは高台寺蒔絵。遠州好の「桐唐草蒔絵丸棗」は、前田家抱えの塗師
近藤道恵の作で朱地に桐唐草が蒔絵されています。また裂地としては遠州公によって選定された「中興名物 米一茶入」の仕覆「嵯峨桐金襴」や、大内義隆縁の「大内桐金襴」、他に戦国末期から安土桃山時代にかけて運ばれた「黒船裂」の桐文などがあります。
また、遠州公は種類の異なる材木を組み合わせ道具を作らせており、「桐掻合七宝透煙草盆」「桐木地丸卓」など、桐を使用した道具が多く残っています。
我が宿の梅の立ち枝や見えつらむ
思ひの他に君がきませる
菅原道真公といえば梅の花。太宰府に左遷となった道真、その道真を追いかけて梅の木が飛んで行ったという「飛び梅伝説」。この故事から、「道真」と「梅」という結びつきが天神信仰の広まりと共に鎌倉中期以降に大衆に浸透します。また「梅」は文様としても多く描かれています。
さて、冒頭ご紹介しました梅の歌にちなんだ銘の茶入「宿の梅」があります。江戸時代初期、薩摩で焼かれたこの茶入は白地の下地が褐色釉のところどころから見え隠れしまるで梅のような景色を作っています。後藤三左衛門所持から「後藤」ともよばれ、遠州公が「拾遺集」の平兼盛の歌から命銘しました。
10月 21日(水)遠州流茶道の点法
「中興名物(ちゅうこうめいぶつ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週に引き続き今日は盆点の中興名物について
お話しします。
中興名物は先週ご紹介しました松平不昧の
『古今名物類聚』に
不昧が大名物以後の名物を選定した
遠州公に由来する名物茶入を鑑別して
中興名物茶入を定めています。
大名物と中興名物の点法での違いは、
盆の扱いに見ることができます。
点法のはじめや、拝見に出す際に
お盆の表・裏の清め方が異なります。
さらに中興名物では茶入を乗せたまま
盆を扱うことが多くありますが、
大名物では必ず盆から外して扱います。
行き暮れて木の下陰を宿とせば
花や今宵の主ならまし
中興名物の茶入に薩摩肩衝 「忠度」という銘のものがあります。「忠度」は世阿弥が新作の手本として挙げた能の一つです。平清盛の末弟であった忠度ある日須磨の山里で旅の僧がその木に手向けをする老人と出会います。一夜の宿を乞う僧に、老人はこの花の下ほどの宿があろうかと勧めます。この桜の木は、一の谷の合戦で討ち死にした忠度を弔うために植えられた木でした。そしてその旅の僧の夢に「忠度」が現れ「行き暮れて」の歌を、「千載集」に詠人不知(よみびとしらず)とされた心残りを語るのでした。風流にして剛勇であった忠度のいくさ語りと須磨の浦に花を降らせる若木の桜が美的に調和した名曲です。この忠度が薩摩守だったことから細川三斎が命銘したとされていて、箱書も三斎の筆と言われています。
高取焼の茶入で有名なものの一つに「横嶽」という銘の茶入があります。
御所持の茶入 一段見事に御座候
染川 秋の夜 いづれもこれには劣り申すべく候…
前廉の二つの御茶入は御割りすてなさるべく候…
(「伏見屋筆記 名物茶器図」)
黒田忠之公が遠州公に茶入を見せて、命銘をお願いしました。遠州公はこの茶入のでき上がりを賞讃し、先週ご紹介した、二つの茶入「秋の夜」「染川」よりも優れているとして、前の二つは割捨ててしまいなさいとまで言っています。
そして九州の名勝横嶽にちなんで銘をつけました。過去火災に遭い、付属物を消失し釉薬の色も多少変わってしまいましたが、形はそのままに現在熱海のMOA美術館に収蔵されています。
その景色から遠州公が
いまぞ見るのちの玉川たづねきて
いろなる浪の秋の夕暮れ 碧玉集
から銘命したといわれています。遠州公の茶会では特に使用の記録ありませんが、挽家の金字形は遠州公の筆跡で「玉川」とあり、遠州公筆の和歌色紙の掛け物が添っています。遠州公所持の後、土屋相模守、松平弾正、神尾左兵衛、寛政の頃には(1789ー1800)信濃国上田城主松平伊賀守江戸十人衆河村家を経て松浦心月伯爵に伝わり、後に藤原銀次郎に伝わりました。
廣澤は千年を超える月の名所です。釣鐘型のこの茶入は
澤の池の面に身をなして
見る人もなき秋の夜の月
という古歌にちなんで、遠州公が銘をつけたとされています。これほどの茶入を今まで見る人もなかったという心からの銘とのこと。
この「廣澤」には蓋裏を銀紙で貼ると伝承されています。月の銘を持つ茶入に相応しい趣向です。遠州公自身が茶会で使用した記録は見つからず、内箱に金粉字形で「廣澤」と書き付けています。遠州公所持の後、松平備前守、土屋相模守、朽木近江守昌綱が所有。松平不昧公が羨望したものの手に入れることが出来ず天保の頃、姫路酒井家が所蔵。現在は北村美術館に収蔵されています。
9月12日 遠州公と中興名物
ご機嫌よろしゅうございます。
茶入などの名物道具には
大名物、中興名物、名物という格付けがありますが、
その中で、遠州公といえば中興名物。
しかしこの中興名物という表現は遠州公の時代に確立していたわけではありません。
中興名物という表現で名物の一つとして格付けたのは
江戸時代後期の大名茶人である松平不昧公です。
つまり遠州公が亡くなってずっと後のこと。
不昧公は遠州公に深く傾倒し、その遠州公が、
名物道具として仕服牙蓋をはじめとする付属品を調べ、歌銘を付け
箱書きをした道具を中心に中興名物として自身の蔵帳に分類をされました。
徳川という平和な時代の到来とともに、
茶の湯を新しく嗜む人が増え、必然的に
茶道具も必要となりますが、しかるべき道具は既に
大名などの手に渡ってしまっているか、戦乱の中で焼失してしまっていました。
そんな中、当時茶の湯の第一人者としての地位を
築いていた遠州公は新たな名物茶道具の選定や指導を受けた
新しい茶道具を生みだしていくのでした。
遠州公の好みによって生み出された「綺麗さび」
の茶道具たち。
これらが後に中興名物と呼ばれるようになるわけです。
春慶とは、瀬戸窯の初代である加藤四郎左衛門 (藤四郎)が、晩年に春慶と称してから作ったものであると言われてる 茶入れの一群です。この茶入は形そのままに、遠州公が命銘したものです。遠州好みである瓢箪の形から名付けられました。お茶会ではおよそ七回使用されていて、第一回を除いて いづれもお正月に使われています。瓢箪という形は縁起の良い形です。 また遠州公が好んだ意匠でもあり、 遠州公が関係する様々なところで、この瓢箪の形を目にします。
瀬戸の窯で丸壺はあまりないようで大変珍しいものです。大切なお道具には、本体そのものは小さくても仕服や蓋、盆など様々な付属がつき、、その何倍にもなる大きな包みにくるまれていたりします。この「相坂」もが仕服が四種に牙蓋が七枚、盆なども作られ、その遠州公の愛憎ぶりが伺えます。茶会では12、3回ほど使用しています。
逢坂の嵐の風は寒けれど
行衛しらねば侘びつつぞぬる(古今集 読み人知らず)
の歌による銘でこれほどの茶入にまた合うことはないだろうとの意味がこめられています。