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戦国乱世から太平の世へ

小堀遠州の誕生

小堀遠州生誕の地 父・小堀新介正次屋敷跡
小堀遠州生誕の地 父・小堀新介正次屋敷跡

小堀遠州は天正七年(1579)近江国坂田 滋賀県長浜市小堀町(旧・郡小堀邑)に生まれました。幼名は作介(さくすけ)といいます。名は正一(まさかず)、または政一とも称しました。号には孤篷庵(こほうあん)や大有(だいゆう)などがあります。小堀氏は近江国坂田郡小堀村(現在の長浜市)に土着した土豪の家柄であり、父の新介正次(しんすけまさつぐ)は浅井長政(1545年〜1573年)の家臣でした。浅井氏(小谷城)が滅亡したのち、正次は豊臣秀吉に仕え、その弟である大和大納言秀長の家老として配属されました。天正13年(1585年)には、姫路から大和郡山城へと移りました。

大和郡山城
大和郡山城

千利休と古田織部との出会い

遠州の母は、浅井長政の重臣であった磯野丹波守員正(かずまさ)の娘です。天正13年(1585年)、作介も父に従って郡山城に入り、豊臣秀長の小姓として仕えました。作介が10歳のとき(天正16年・1588年)、秀長邸に豊臣秀吉が茶客として招かれた際、秀吉の茶の湯の給仕役を務め、そのとき初めて千利休から手ほどきを受けたと伝えられています。文禄2年(1593年)、作介は15歳で元服し、主君・豊臣秀保(秀長の養子で豊臣秀次の弟)から六百石の初禄を賜り、名を正一と改めました。同じ年に、大徳寺(臨済宗大徳寺派大本山)の春屋宗園禅師(円鑑国師・大徳寺第111世住持、1529年〜1611年)のもとで参禅し、「宗甫(そうほ)」の号を授かりました。茶の湯については、はじめ父・新介正次から珠光流(村田珠光の茶)の手ほどきを受け、文禄2年頃からは古田織部正重然(ふるたおりべのしょうしげなり)に師事して学びを深めていきました。

乱世の世を生き抜いた
新介親子

文禄4年(1595年)、豊臣秀保の死によって大和大納言家が滅んだのち、遠州は父の新介正次とともに再び豊臣秀吉の直参となり、伏見に住居を移しました。慶長2年(1597年)、正一(まさかず)が19歳のとき、藤堂高虎の養女を正室に迎えました。翌年の慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死後、父の新介正次、藤堂高虎、古田織部は、次なる主君として徳川家康に仕えることを選びました。慶長5年(1600年)、徳川家康の上杉景勝討伐に際して、遠州は父とともに従軍し、さらに関ヶ原の戦いにも家康の旗本として参戦しました。その戦功により一万石の加増を受け、合わせて一万四千四百六十余石を領し、備中松山(現在の岡山県高梁市)を預かることとなりました。慶長9年(1604年)、正一が26歳のとき、父・正次が江戸への参府途中、相州藤沢(現在の神奈川県藤沢市)で病没しました。これにより遠州は父の遺領を継ぎ、徳川家康に仕えて備中国務をつかさどり、松山城を預かることになりました。このとき、異母弟の治左衛門正行(まさゆき)に二千石を分与し、自らは一万二千四百六十余石を相続しました。慶長13年(1608年)、30歳のとき、幕府から駿河国府中城(現在の静岡県静岡市)作事奉行を命じられ、その天守閣の完成の功績により、朝廷から諸大夫従五位下遠江守(とおとうみのかみ)に叙せられました。これ以後、作介正一は「小堀遠州(えんしゅう)」と呼ばれるようになりました。慶長14年(1609年)、参禅の師である春屋宗園禅師から「大有(だいゆう)」の道号および「孤篷(こほう)」の号を授かりました。慶長17年(1612年)、遠州は尾張国名古屋城天守の作事奉行を務め、同年9月には大徳寺塔頭・龍光院(りょうこういん)内に孤篷庵(現在、重要文化財)を創建し、江月宗玩禅師(1574〜1643年)を開山として迎えました。さらに同年11月8日には、台徳院・徳川秀忠(二代将軍)を江戸屋敷に迎えて茶を献じています(『徳川実紀』による)。元和元年(1615年)6月11日、遠州が37歳のとき、師の古田織部正重然が伏見木幡の自邸で切腹し、同年8月14日には異母弟の正行も遠州の伏見屋敷において33歳で病没しました。

駿府城
駿府城

白鷺の絵に外題

元和2年(1616年)4月16日、大御所・徳川家康が亡くなりました。翌年の9月7日には、台徳院・徳川秀忠から一万二千四百六十余石の朱印を拝領しました。この年、遠州は河内国奉行(現在の大阪府)に任じられ、行政官僚としての手腕を発揮しました。大坂天満に屋敷を賜り、その働きぶりは多くの人々から称賛されました。翌元和4年(1618年)3月3日、遠州は奈良の松屋久好の茶会に招かれました。その席で、松屋三名物の一つである徐煕(じょき)筆「白鷺緑藻図(はくろりょくそうず)」の外題(げだい)を所望され、「茶の湯の和尚とはこの一軸なり」と評しました。この言葉によって「白鷺緑藻図」は一段と著名になったと伝えられています。松屋三名物とは、この「白鷺緑藻図」のほか、「松屋肩衝(かたつき)」と呼ばれる漢作の唐物茶入(松本肩衝ともいい、現在は根津美術館蔵)、そして「唐物存星(ぞんせい)盆」の三種を指します。なかでも「白鷺緑藻図」は格別の名品とされ、細川三斎はこの鷺の絵を拝見した際、長袴(ながばかま)の礼服で拝したという逸話さえ伝えられています。

公武作事奉行の第一人者

元和4年(1618年)3月18日、二代将軍・徳川秀忠の娘・和子(後の東福門院)が後水尾天皇の中宮として入内されました。このとき、遠州は6月に女院御殿造営の奉行を務めました。翌元和5年(1619年)、遠州は備中の領地から郷里である近江国小室(こむろ)へ移封され、小室に茶亭を築きました。元和6年(1620年)2月15日には、嫡子・正之(まさゆき)が伏見で誕生しました。元和7年(1621年)には、江戸から京都へ上る旅の記録『道の記上り』を記しています(9月22日に江戸を出発し、10月4日に京都に到着するまでの13日間の紀行文です)。また、寛永19年(1642年)には京都から江戸へ向かう『道の記下り』を著し、10月8日に京都を出発、17日に江戸へ到着する9日間の旅の記録を残しました。これらの旅行記は当時大変評判を呼び、依頼を受けて書き送った写本がいくつか現存しています。元和9年(1623年)、遠州は伏見奉行に任じられました。伏見奉行は老中直轄の遠国奉行のひとつで、伏見の民政や木津川の船舶管理を担う重要な役職です。遠州は生涯にわたりこの任を勤め上げました。その後、二条城の修築や大坂城本丸御殿の作事奉行などを務め、公武作事奉行の第一人者として高く評価されるようになりました。特に建築や作庭においては非凡な才能を発揮し、黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝(こんちいん・すうでん)からは、南禅寺本坊や金地院の茶席・庭園の作事を依頼されています。さらに、寛永4年(1627年)11月から翌5年12月にかけて、仙洞御所の作事奉行も務めました。寛永6年(1629年)6月6日には、急な召しにより江戸へ参府し、江戸城西の丸御泉水および山里の茶亭の作事を拝命しました。その完成の功績により、将軍家から黄金千両を賜りました。さらに寛永11年(1634年)、三代将軍・家光の上洛に備えて近江水口城茶屋の修造を命じられ、同時に五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)の代官も兼ねることとなりました。これは、遠州が正式に畿内監察という極めて重要な任務に就いたことを意味しています。

京都仙洞御所
京都仙洞御所

将軍家茶道指南役

寛永13年(1636年)5月21日、品川林中御茶屋御殿が完成し、将軍・徳川家光が行幸されました。遠州はその折に茶を献じ、家光からその労をねぎらわれて、清拙正澄(せいせつしょうちょう)の墨蹟『平心(へいしん)』の二大字を拝領しました。この出来事を契機に、遠州は「将軍家茶道師範」と称されるようになりました。清拙正澄は1274年に生まれ、1339年に没した人物で、中国の元から来朝し、日本に帰化した臨済宗の高僧です。15歳で出家し、愚極智慧(ぐきょくちえ)の法を嗣ぎました。嘉暦元年(1326年)に博多へ来着し、執権・北条高時に迎えられて鎌倉の建長寺に住しました。その後、浄智寺、円覚寺へと移り、元弘3年(1333年)には後醍醐天皇の勅請により京都・建仁寺に入山しました。やがて南禅寺に移り、一度は退居しましたが、再び勅命を受けて建仁寺に復帰しました。晩年には「大鑑禅師(だいかんぜんじ)」の諡号(しごう)を勅賜(ちょくし)されています。

名古屋城天守の作事

慶長17年、小堀遠州24歳の時に、尾州(愛知県)名古屋城天守構造の作事奉行を勤めました。名古屋城は慶長15年(1610)に徳川家康がその子・義直(尾張徳川氏)の居城として築いたもので、加藤清正は本丸の石垣構築に従事し、諸大名も工事に従事しました。 この名古屋城は大坂冬の陣・夏の陣に備えて築かれたものですが、大勢はすでに徳川方の優位に傾いていました。そのため遠州公は、戦のための城ではなく、天下泰平の象徴となるような優雅で美しい城を築いたのです。 一方、大坂城は豊臣政権の象徴としての性格を持ち、西日本支配の拠点として、豊臣の威光を完全に払拭することが求められていました。そのため大坂城は従来の城郭に比してさらに大規模かつ重厚に築かれ、権力を誇示する外観を備えていました。 このように、同じ城郭であっても、名古屋城は「天下泰平の象徴」、大坂城は「権力の象徴」と、それぞれに異なる役割が与えられていたことは実に興味深いです。遠州公はこうした城郭建築においてその手腕を存分に発揮し、その名を世に知らしめることになりました。

桂離宮 松琴亭
名古屋城

幕府の文化興隆に貢献

江戸在勤中の慶長20年(1615年)、遠州は孤篷庵を龍光院内から現在地(京都市北区紫野大徳寺町)に移しました。寛永13年(1636)、58歳のときに江戸品川御殿で三代将軍徳川家光に献茶し、以来、将軍家の茶道指南役として名を確立します。晩年の寛永19年(1642)から正保2年(1645)までの足掛け4年間は、いわゆる「遠州の江戸詰」とされ、家光が寛永飢饉対策を期待して遠州を膝下に在勤させた時期です。この間に、幕府の農民救済の基本方針となる歴史的な法令を策定し、その法令は幕末まで受け継がれます。4年間の在勤中には、参勤交代で江戸に上っていた各地の大名を茶会に招き、その法令の趣旨を伝えました。正保2年(1645年)4月、遠州67歳のとき、将軍家に暇を願い出て伏見に帰る際、将軍家光から立花丸壺茶入を拝領しました。正保4年(1647年)2月1日、伏見の茶亭で催した茶会が最後の茶会記録となり、同年2月6日、伏見奉行屋敷において69歳で逝去しました。伏見奉行としての在職期間は25年に及び、公務に加えて私的にも多忙を極めた生涯の中で、実に400回以上の茶会を催し、延べ2000人を超える茶客を招いたといわれています。遠州は辞世の句として、 「きのふといひ けふとくらして なすことも なきみのゆめの さむるあけぼの」を詠みました。孤篷庵に現存するこの辞世の筆跡は実に見事であり、死を目前にした遠州の静かな覚悟が伝わってきます。先にも述べたように、遠州は公務の合間にも茶の湯に心血を注ぎ、深い教養を磨きながら茶の湯芸術を豊かに実らせました。まさに今日の茶道の基礎を築いた人物であるといえます。特に遠州は、伝統文化復興の時流に即して新たな工夫を凝らし、建築や造園においては古典美を高め、武家社会の全盛期にふさわしい茶室・鎖の間・書院の一体化を実現しました。茶室の構成においては、道具の荘厳美を重んじ、名物の取り立てや選定(後に「中興名物」と呼ばれる)を行いました。また、それらの名物に古歌を添えて歌銘を付すなど、風雅の精神を表現しました。さらに、利休・織部の茶陶芸術を継承・発展させ、国焼窯の振興にも尽力するなど、茶道と工芸文化の発展に大きな足跡を残しました。

遠州流茶道連盟
遠州流茶道連盟