生涯
小堀遠州(1579-1647年)の生涯を、茶道・建築・庭園・文化的功績を中心に紹介。
王朝文化の復興
王朝文化とは、平安時代に貴族社会を中心に発展した、日本独自の美意識をもつ文化です。小堀遠州はこの「王朝の美」を深く愛し、平安時代を代表する歌人・藤原定家の書風である「定家様(ていかよう)」を受け継ぎ、自らの書にもその様式を取り入れました。また、千利休の師として知られる武野紹鷗は、東山時代の公卿であり学者でもあった三条西実隆(1455〜1537)から『詠歌大概(えいかたいがい)』を授かり、それによって和歌の道を悟ったと伝えられています。『詠歌大概』は、鎌倉時代の歌人・藤原定家が著した歌論書で、和歌の初心者に向けて詠み方や心得を簡潔な漢文でまとめたものです。さらに、『定家八代抄』から選ばれた秀歌103首を「秀歌之体大略」として収録しています。本文には、「情(こころ)は新しきをもって先とし、詞(ことば)は古きをもって用ふべし」「和歌は師匠なし、ただ旧歌をもって師と為す」といった教えが見られます。遠州もこうした思想の影響を受け、書の美の中にその精神を反映させました。さらに遠州は、狩野探幽をはじめとする狩野派の絵師たちを登用し、当時主流であった宋・元の唐絵に代えて、日本古来の美意識に基づく大和絵の復興を試みました。これはまさに「温故知新」の実践であり、茶の湯を総合芸術として完成させたのが小堀遠州であるといえます。
この書状は、元和5年(1619年)から大坂町奉行を務めた嶋田清左衛門直時(1570〜1628)に宛てた年賀の賀状です。嶋清公から贈られた和歌への御礼とともに、新年を祝う返歌を一首したためています。伏見奉行であった小堀遠州と嶋田直時は、ともに幕府の要職にありながら、その職務を超えた深い親交を結んでいたことが、この書状からもうかがえます。一文字風帯は茶地一重蔓菊唐草文金襴、中廻はハナダ地波頭梅鉢文金襴、上下は金茶シケで仕立てられています。
小堀遠州は和歌にも深い造詣をもち、東福門院の『集外三十六歌仙』や後西天皇の勅撰集にもその歌が収められています。茶器に添えた銘や消息文の中にも詠歌を詠み込むなど、美しい作品を数多く残しました。これらの詠歌をたどることで、遠州の生涯の折々の心境をうかがい知ることができます。寛永13年(1636年)、将軍・徳川家光は日光東照宮の大増築を行い、4月17日の徳川家康の命日に参詣しました。このとき随行した小堀遠州は、 「日の光 東を照らす 神風は 今日より君の 万代の声」 と詠み、「日光東照神君」の文字を歌に込めました。
この小色紙は、枡形の素紙を菱形に用い、定家流の完成された書風で散らし書きにした作品です。表装も遠州自らの好みによるもので、円窓の中心に小色紙を台張りにした独特の構成となっています。表装は、小縁風帯が紺地色入上代紗、中廻は茶シケで仕立てられています。
「よしやただ 心の駒はあれぬとも ついにのりしる 道をたづねむ 宗甫」
小倉色紙は、『小倉百人一首』として親しまれている、藤原定家が撰んだ百人の歌人それぞれの一首を色紙に書き、洛西嵯峨の小倉山荘の障子に貼ったと伝えられるものです。これが一枚ずつ伝世してきた、いわゆる「古筆」のひとつであり、茶の湯において古筆が取り上げられた最初の書とされています。紹鴎、利休が茶席の床に用いて以来、この色紙は特に珍重され、江戸時代初頭には墨跡と同等の重みをもつものとされました。また、筆道の上でも定家流の流行を生むきっかけとなりました。定家流の第一人者であった遠州は、この書風を深く体得しており、本作もまた定家の真筆と見まごう書体で、式子内親王の詠歌が記されています。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば しのぶることの よわりもぞする」
一音を一字で大きく書した定家の時代を反映する斬新な書風が、遠州の筆によって見事に再現されています。