東海道旅日記「大磯」
2019-8-16 UP
2019-8-16 UP
2019-8-15 UP
ご機嫌よろしゅうございます。
9月23日 晴
遠州一行は神奈川の宿を早朝に出発します。
帷(かたびら)の里、いまの保土ヶ谷あたりをすぎ、
遠州一行は藤沢に差し掛かります。
藤沢は東海道の江戸日本橋から数えて6番目。
多くの道が集まる場所でもあり、東海道からの分岐点の町として栄えました。
そして藤沢は遠州公の父・新介正次公が亡くなった地でもあります。
慶長9年(1604)2月。江戸出府の途中、相模国・藤沢にて65歳で急逝。
戦乱の世を駆け抜け、ようやく平和をむかえようとしていた時代、
外様であるはずの小堀家は備中を任されるなど、譜代並みの扱いを受け、
政務に奔走しました。
遠州公この時26歳、この旅のおよそ17年前。
そして父の遺領、備中奉行を継ぎ、父と同様忙しい日々を送ることとなります。
藤沢の地に足をいれた遠州公は、亡父に想いをよせていたことでしょう。


写真提供 田中宗未先生
2019-8-14 UP
2019-8-13 UP
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が江戸屋敷を出発して一泊目となる神奈川では、
親しい友人からの名残を惜しむ餞別が続々と届きます。
かへりこむと ちぎるもあだし
人ごころさだめなき世の さだめなき身に
遠州公の返歌から、当時の旅行が現在に比べていかに
心細いものだったかということが伝わってきます。
遠州公の宿泊した神奈川は、東海道五十三次のひとつ
である神奈川宿、日本橋をでて3番目の宿場町で、
現在の横浜駅周辺でした。
この横浜駅、鉄道本数の増加や乗り入れ・地下化、
駅周辺の商業施設の参入などで駅の構造も大幅に変化し、
現在でも構 内のどこかで必ず工事が行われている
「完成しない駅」で、日本の「サグラダ・ファミリア」
とも言われています。
2019-6-23 UP
酉 9月
22日天快晴 午時許にむさしの江戸を立したしき人々のここかしこ
馬の餞すとて 申時許 科河(しながわ)の里をいでて
いそぎけれども 酉時許に神奈河里に着
此所に一宿 宵燭ほどに又ともだちの名残
おしみて馬の餞すとて 酒肴 小壺に茶を入 文添てをこせたり
その返事 その返事 取集たる言種いひやる次に

別といふ心を
かへりこむと ちぎるもあだしひとごころ
さだめなき世の 定めなき身に
元和7年(1621)9月22日、午時(うまのとき)、ちょうどお昼を過ぎた頃。遠州公は江戸駿河台の屋敷から出発し、京都への旅が始まります。この時43歳。前年には嫡子正之が誕生しています。

遠州公の屋敷は牛込と駿河台にあり、この駿河台の屋敷には秀忠の御成を迎えたと考えられています。将軍にお茶を差し上げるにふさわしい数寄屋の整った屋敷でした。
駿河台は江戸城に近く、武家屋敷が並んでいました。その屋敷の敷地は広く、明治維新の際に政府に土地が返還された後は、大学等になったそうです。遠州公の屋敷跡には後に中央大学の校舎が建ち、現在では商業ビルが建てられています。
2019-6-22 UP
2019-6-21 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
昨年に引き続き先月まで遠州公指導の茶陶をご紹介してまいりました。
今月から遠州公の旅日記として残る「東海道旅日記」に記される地の
今・昔をご紹介していく予定です。
遠州公は1622年9月43歳の時に上りの記、21年経て1642年64歳の時に
下りの記を書いています。
京都から江戸、江戸から京都までの旅路。
新幹線や飛行機を使って数時間で移動できる現在とは異なり、一日の移動時間約9時間半、
12泊13日という長い時間をかけて遠州公も旅をしました。しかしその道中を記す日記に
は、景色を愛で、旧友との別れや再会を想う心境が歌や詩でつづられており、
とても心豊かな旅であったことがわかります。
2019-5-26 UP
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は染付・祥瑞についてのお話しを
請来陶磁のなかでも最も多く伝世しているのが
古染付と祥瑞です。
古染付は明時代末期、天啓年間(1621~28)頃に、
また祥瑞は崇禎(てい)年間(1628~45)頃に日本
の注文によって景徳鎮の民窯で焼造されたといわれ
てきた染付陶磁で、日本からの注文によって焼造さ
れたといわれています。
遠州好みとして知られる祥瑞の鳥差瓢箪香合は、
上下の円窓の中に鳥が描かれており、鳥を捕獲する
鳥差を表しているとされ、松花堂昭乗の下絵で、
遠州公の意匠により景徳鎮へ注文されたものと伝わっています。
2019-5-25 UP
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は御本茶碗のお話しを。
三代将軍徳川家光公が描いた立鶴の茶碗を、
遠州公が切形をもって注文したと伝えられる
「御本立鶴茶碗」とよばれるものが図柄と
器形がほぼ同じもので十碗ほど伝わっています。
又、小堀家に伝わる「夢の字」茶碗は、
遠州公が釜山窯に「切形」を送って注文を出し、
送られてきた素焼きに遠州自ら「夢」の字を書
いて送り返してと、二回の往復を経て生まれた
茶碗です。この茶碗の箱蓋表には遠州公の筆で
「新高麗」と書いてあります。
2019-5-24 UP
ご機嫌よろしゅうございます。
これまで遠州公ゆかりの茶陶をご紹介してまいりましたが、
遠州公が指導した茶陶は国内だけではありません。
オランダ・中国・朝鮮と海外の窯にも好みの茶陶を焼かせていました。
現在、茶会で海外の道具を取り入れることはよく行われますが、
江戸前期の茶会記にみると、染付・青磁など用いているのは
遠州公を始め武家茶人や僧侶で、利休以来の千家の茶の湯では
この種の茶陶はほとんど使われていません。
17世紀に海外から請来された茶陶の多くは武家社会や交易に
関わった人々の間で珍重され、茶道界全体に行き渡るのは
もう少し後のことになります。
今月は遠州公が指導した海外の茶陶をご紹介致します。