東海道旅日記 下りの記【11】 10月09日『関宿』

2021-5-28 UP

関の里に到着した際には、供の者の歌として風邪の咳と関の里のせき、亀山の里と鼻をかめとをかけて、

風ふけば みなかち人はせきいでて
ゆくゆく鼻を 亀山のさと

と狂歌を詠んで笑い興じたとあり、旅情をなぐさめています。早朝に水口の宿から出発し、約41キロ弱の道のりを進み、庄野の里に到着。日の短い頃ですから、なるべく先を急ぐために足早に進んでいます。関宿には、参勤交代や伊勢参りの人々でにぎわった町並みが残されていて、当時の人々の暮らしが伺えます。

東海道旅日記 下りの記【10】 10月09日『江月和尚の偈文』

2021-5-7 UP

まだ日も昇らぬうちから宿を発ち、鈴鹿山で休憩する遠州公一行。この日の日記では、出発の際にいただいた江月和尚の手紙を読み、その心遣いに涙を流す遠州公の様子が記されています。長い旅路へ向かう遠州公を気遣った江月和尚が送った偈文

莫忘風流旧同友 花時洛下約遭逢
(わするなかれふうりゅうきゅうどうゆう
 はなのときらっかにそうほうをやくす)
には、風流の心を一日としてわすれることなく、今日まで生きながらえてきた私たちであるから、また必ず桜の花が咲くような風流の時には、また京都で逢うことができるでしょう。お互いに元気でその時を楽しみにしています。という意味が込められています。

この時江月和尚69歳、遠州公64歳。当時60歳を超えることは大変な長寿であったので生涯の友ともいえる二人の交友の深さがこの偈文からも偲ばれます。遠州公も鈴鹿の神前で、また来年の桜の咲く頃、お目にかかりたいと願います。玉の緒(命)の少しでも長からんことを
祈るばかりです。と歌を贈ります。残念ながら、遠州公が江戸に出府している翌年の11月1日に70歳で入寂される江月和尚。再び会うことは叶いませんでした。

東海道旅日記 下りの記【09】 10月09日『鈴鹿山』

2021-4-24 UP

九日 鶏の鳴くより前に出発をし、午前八時頃に、伊勢の国鈴鹿山の麓に到着。しばらく休憩をとることにして、都を発つときに洛北大徳寺の江月和尚からいただいた餞別の一偈を開くと、別れの情が改めて思い出される。

相坂の 関の名を鈴鹿山 
 けふふりはへて そでぞ時雨るる

と口すさびつつ手紙に目をやるとご自身もお身体の調子が悪くていらっしゃるのに、細やかに私の体調を気遣って、この旅路を案じて記してくださっていた。返歌ではないが一首歌を詠んだ。

例ならぬ 身さへ老さへ 別さへ 
 君と我とのものぞかなしき

流れる涙をおさえつつ、一偈をひらく。その三、四句目に
莫忘風流旧同友 花時洛下約遭逢
(わするなかれふうりゅうきゅうどうゆう はなのときらっかにそうほうをやくす)
と、互いの長寿を祝してくださっている。ちょうどありがたくも鈴鹿神社の御神前であったので

花の時 あはむとならば 鈴鹿山
 神にぞいのる ながき玉の緒

と返歌を詠んだ。このような戯れ言も、思えば本当の祈りになるであろうよ。この里を出て

八十瀬立 浪かけ衣 ほさじただ 
 君がわかれの わすれがたみに

と詠む。江月和尚にこれまでの事を早速文にしたためて送った。次第に進んでいくと関の里に着いた。ここを出るといって供のものが歌を詠んだ。

風ふけば みなかち人は せきいでて 
 ゆくゆくはなを かめ山のさと

笑いにて興じて、先を進み、庄野の里に到着。一泊した。

東海道旅日記 下りの記【08】 10月8日『瀬田大橋』

2021-3-5 UP

日記に出てくる瀬田大橋の擬宝珠にはこんな逸話があります。千利休が昼の茶会の席で、「瀬田の唐橋に付いている擬宝珠のなかに、形の見事なものが2つあるのですが、それを見分けた方はおられますか」と皆に尋ねました。その場にいた織部が、にわかに席を離れるやその後姿がみえなくなったので、皆どうしたのだろうと思っていると、晩になってお戻りになりました。利休が何か御用事あったかと聞くと、「さきほどご指摘の擬宝珠を見分けてみようと瀬田まで行ってまいりました。二つの擬宝珠とは、橋の両端のものではありませんか。」と織部。それを聞いた利休は「いかにも」と答えます。一座にいた人々は、織部の執心の深さに感嘆したそうです。

東海道旅日記 下りの記【07】 10月8日『急がばまわれ』

2021-2-26 UP

忙しいとき、つい近道と思って行った道や片手間にやってしまったことが、 かえって時間を食う結果となることがあります。 そんなときのいましめに「急がばまわれ」という言葉が浮かぶでしょう。室町時代の連歌師、宗長が詠んだ

武士(もののふ)のやばせの渡り近くとも
 急がばまわれ 勢多の長橋

という歌が、「急がばまわれ」のことわざの発祥であると 江戸初期の僧、安楽庵策の記した『醒睡笑』に紹介されています。 東海道を進むには、矢橋のから船で向かう方が早いけれども、 天候によっては危険をともないます。 少々遠回りではあっても勢多の長橋から行った方が安全だということで使われたようです。

東海道旅日記 下りの記【06】 10月8日『近江八景』

2021-2-12 UP

湖を船ですすむ遠州一行。湖上からふと目をやれば、趣深い風景が広がっています。情趣を解さない、歌を詠まない供の者に、残念そうな遠州公でした。この近江湖東から八カ所の名所を、中国の「瀟湘八景」になぞらえて選んだものが近江八景です。
これまで、戦国時代から江戸時代にかけて選定されたといわれていましたが、近年では、「寛永の三筆」の一人近衛信尹が、琵琶湖湖畔の膳所城からその眺めを詠み選んだ歌が残されている資料が発見されました。近江の数ある名勝のなかから、瀟湘八景の情景を取り合わせて、膳所城からの眺望を和歌にして詠み、膳所城主に差し上げたという説が有力です。
江戸時代には日本の代表的な名所として多くの人に親しまれ、江戸後期浮世絵師の安藤広重の風景画により広く知られるようになりました。近衛信尹は公家の中でも最高位にある近衛家の中でも偉才人物で「寛永の三筆」数えられる能筆でありました。その養子にあたる信尋は、
やはり能書家で知られ、実は後水尾天皇の弟にあたる人物ですが、遠州公との手紙のやりとりが残っており、当代きっての文化人同士の交流が伺えます。

東海道旅日記 下りの記【05】 10月8日

2021-2-5 UP

日記のはじめに登場するのは江月宗玩。この江月宗玩禅師は遠州の5歳年上の大変親交の深い人物の一人です。10月8日江戸に向かうことになった遠州公に餞別の志を一偈にして、手紙を添えて送っていますがその翌年にはお亡くなりになっています。津田宗及の子。春屋宗園の法を継ぎ大徳寺、博多崇福寺の住持となります。茶人として名を馳せた父・宗及由来の名物などを見聞きして育っており江月を開山とする大徳寺龍光院は、江月由来の名物が数多く残っています。

江月といえば、朝廷が僧侶に出した紫衣勅許を江戸幕府が無効とした紫衣事件が有名です。幕府に対し抗議をした結果、配流となった沢庵宗彭・玉室宗伯に対して、江月は大徳寺の存続のため許されます。当時、その人となりからも一行物が大変に人気のあった江月ですが、一人罪を免れたとの汚名を受け、当時の人々はその墨蹟を破り捨たとも記されています。しかし実際には三年の間、京へは戻らず江戸にとどまり、配流となった二人の放免に尽力したと思われます。

東海道旅日記 下りの記【04】 10月8日

2021-1-22 UP

山の方へ眼をやると、そこだけが時雨が降っており、見過ごしがたい眺めだ。

出てゆく けふの別を おしといふ 
けしきながらの 山の時雨は

と、独り言ちする。伴う人はいても、歌を詠む者ではないので、この山の景にさへ不満そうな顔でいるのも言葉こそださないが嘆かわしい心地でいると、舟は矢橋の浦に到着した。見送りに来てくれた人たちに、別れを告げて舟から上がり、此の里を出る。東の方角に向かえば鏡の山、おいその森も近い。この山も時雨れて曇っている。

心ありて くもる鏡の山ならん 
老そのもりの かげやうつると

と、また独り言ちして進む。戌の刻(20時前後)水口の里に着く。ここにまで都より人が訪ねてきてくれていろいろと話をしている程に、その夜も更けていった。

東海道旅日記 下りの記【03】 10月8日

2021-1-15 UP

10月8日江戸に向かうことになり江月和尚より餞別の志を一偈にして、手紙を添えてよこしてくださった。公儀の用が忙しく、手紙を開く暇もなく日も暮れ、伏見の里を朝も早くから出発し、関山を越えて内出の里に到着する。そこかしこから人が集まってきて、心せわしくあわただしくしているうちに時も過ぎていった。
瀬田の長橋を渡ろうとするが日が短いので、うち出の濱から渡し船に助けられて琵琶湖をすすむ。北を見れば焦がれてやまない滋賀の故郷がみえる。唐崎の松も懐かしく思われる。

ふるさとの 松としきかば旅衣 
たちかへりこむ しがのうら浪

東海道旅日記 下りの記【02】『遠州の江戸詰四年』

2021-1-8 UP

 寛永19年10月に遠州公は江戸の飢饉対策奉行となっています。「公の事しげくに…」と記されていた背景にはこのお役目があったのでしょうか。この年、寛永の大飢饉がおこり全国的な飢饉にみまわれます。農民たちは作物の育たない田畑を手放し、身売りや江戸へ流入し、飢えに苦しむ人々であふれていました。その対応に追われていた幕府は、知恵伊豆と言われていた松平伊豆守信綱を中心に、畿内の農村掌握の第一人者であった遠州公も連日評定所にて協議を行いました。このとき、将軍に茶道指南を請われたともいわれ、この先4年間江戸にとどまることとなり、俗に「遠州4年詰め」と呼ばれています。この飢饉対策の対応のため動く幕閣や、江戸に参集していた各地の大名に遠州公の茶が広まるきっかけともなるのでした。