ご機嫌よろしゅうございます。
今日は染付・祥瑞についてのお話しを
請来陶磁のなかでも最も多く伝世しているのが
古染付と祥瑞です。
古染付は明時代末期、天啓年間(1621~28)頃に、
また祥瑞は崇禎(てい)年間(1628~45)頃に日本
の注文によって景徳鎮の民窯で焼造されたといわれ
てきた染付陶磁で、日本からの注文によって焼造さ
れたといわれています。
遠州好みとして知られる祥瑞の鳥差瓢箪香合は、
上下の円窓の中に鳥が描かれており、鳥を捕獲する
鳥差を表しているとされ、松花堂昭乗の下絵で、
遠州公の意匠により景徳鎮へ注文されたものと伝わっています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は阿蘭陀茶碗をご紹介します。
遠州公の時代には既にオランダからの
陶器が舶来品として入ってきており、
オランダへの注文に関しては長崎のおらんだ
商館の記録が残っています。
注文が盛んになるのは寛永年間(1624~44)
末頃からで、土型や木型を本国に送って作ら
せています。
遠州公の箱書のつく「おらむだ 筒茶碗」
は遠州公の好んだ高取や薩摩などの半筒茶碗
と同じ形に、小堀家の家紋である七宝文をあ
しらっています。
こちらはおそらく前田利常か堀田加賀守を通
じて注文したものと推測されます。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は御本茶碗のお話しを。
三代将軍徳川家光公が描いた立鶴の茶碗を、
遠州公が切形をもって注文したと伝えられる
「御本立鶴茶碗」とよばれるものが図柄と
器形がほぼ同じもので十碗ほど伝わっています。
又、小堀家に伝わる「夢の字」茶碗は、
遠州公が釜山窯に「切形」を送って注文を出し、
送られてきた素焼きに遠州自ら「夢」の字を書
いて送り返してと、二回の往復を経て生まれた
茶碗です。この茶碗の箱蓋表には遠州公の筆で
「新高麗」と書いてあります。
ご機嫌よろしゅうございます。
これまで遠州公ゆかりの茶陶をご紹介してまいりましたが、
遠州公が指導した茶陶は国内だけではありません。
オランダ・中国・朝鮮と海外の窯にも好みの茶陶を焼かせていました。
現在、茶会で海外の道具を取り入れることはよく行われますが、
江戸前期の茶会記にみると、染付・青磁など用いているのは
遠州公を始め武家茶人や僧侶で、利休以来の千家の茶の湯では
この種の茶陶はほとんど使われていません。
17世紀に海外から請来された茶陶の多くは武家社会や交易に
関わった人々の間で珍重され、茶道界全体に行き渡るのは
もう少し後のことになります。
今月は遠州公が指導した海外の茶陶をご紹介致します。
ご機嫌よろしゅうございます。
先週ご紹介した古曽部焼と同様、遠州七窯に数えられてはいるものの
遠州公以後の窯と考えられている焼き物に「赤膚焼」があります。
現在では可愛らしい奈良絵でおなじみの赤膚焼ですね。
五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられました。
天正期、国主大和大納言秀長が尾張国の陶工与九郎を招き開窯を命じ、
正保期の当主本多政勝のとき、仁清が訪れて開窯したと伝えられますが
詳細は分かっていません。
寛政末年、当主であった柳沢保光(堯三)が御用窯とし、保光没後は一時衰微しますが、
天保期に、郡山在住の数奇者である奥田木白が陶工治兵衛の窯で仁清写等、
写物を焼成し再興しました。
遠州公との関連は定かではありませんが、秀長に仕える父と青年期を過ごした
大和郡山の窯であることが、なにか関係があるのではと思うと大変興味深いです。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は古曽部焼の歴史のお話しを。
寛政三年(1791)五十嵐四郎兵衛新平が京焼風な窯を築いて再興しました。
以後代々「古曽部」の印を用いて京焼風の茶陶や高取・唐津・絵高麗・南蛮写
などの雅陶を制作しました。特に二代信平は名手として知られています。
通常焼き物は集落に何軒かの窯元があり、焼き物を作りますが、
古曽部焼は、五十嵐家を唯一の窯元とする、五十嵐家の家業として生産されていました。
古曽部窯は、五十嵐家の敷地内に設置された登り窯の名称で、
最後に製品が焼かれて後20年以上すぎた1950年代に破損、窯を閉ざしたまま現在に至っています。
ご機嫌よろしゅうございます。
幕末の道具商田内梅軒が著した「陶器考」の中に記される「遠州七窯」の一つに
古曽部焼があげられています。
伊勢姫、能因法師隠棲の地としても知られる古曽部。
古曽部焼の開窯は桃山時代末から江戸初期とされ、
遠州七窯の伝承があるものの、確かな史料がありません。
そのため遠州以後の窯と考えられています。