海外の茶陶④

2019-5-26 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は染付・祥瑞についてのお話しを
請来陶磁のなかでも最も多く伝世しているのが
古染付と祥瑞です。
古染付は明時代末期、天啓年間(1621~28)頃に、
また祥瑞は崇禎(てい)年間(1628~45)頃に日本
の注文によって景徳鎮の民窯で焼造されたといわれ
てきた染付陶磁で、日本からの注文によって焼造さ
れたといわれています。
遠州好みとして知られる祥瑞の鳥差瓢箪香合は、
上下の円窓の中に鳥が描かれており、鳥を捕獲する
鳥差を表しているとされ、松花堂昭乗の下絵で、
遠州公の意匠により景徳鎮へ注文されたものと伝わっています。

海外の茶陶③

2019-5-26 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は阿蘭陀茶碗をご紹介します。
遠州公の時代には既にオランダからの
陶器が舶来品として入ってきており、
オランダへの注文に関しては長崎のおらんだ
商館の記録が残っています。
注文が盛んになるのは寛永年間(1624~44)
末頃からで、土型や木型を本国に送って作ら
せています。
遠州公の箱書のつく「おらむだ 筒茶碗」
は遠州公の好んだ高取や薩摩などの半筒茶碗
と同じ形に、小堀家の家紋である七宝文をあ
しらっています。
こちらはおそらく前田利常か堀田加賀守を通
じて注文したものと推測されます。

海外の茶陶②

2019-5-25 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は御本茶碗のお話しを。
三代将軍徳川家光公が描いた立鶴の茶碗を、
遠州公が切形をもって注文したと伝えられる
「御本立鶴茶碗」とよばれるものが図柄と
器形がほぼ同じもので十碗ほど伝わっています。
又、小堀家に伝わる「夢の字」茶碗は、
遠州公が釜山窯に「切形」を送って注文を出し、
送られてきた素焼きに遠州自ら「夢」の字を書
いて送り返してと、二回の往復を経て生まれた
茶碗です。この茶碗の箱蓋表には遠州公の筆で
「新高麗」と書いてあります。

海外の茶陶

2019-5-24 UP

ご機嫌よろしゅうございます。

これまで遠州公ゆかりの茶陶をご紹介してまいりましたが、
遠州公が指導した茶陶は国内だけではありません。
オランダ・中国・朝鮮と海外の窯にも好みの茶陶を焼かせていました。
現在、茶会で海外の道具を取り入れることはよく行われますが、
江戸前期の茶会記にみると、染付・青磁など用いているのは
遠州公を始め武家茶人や僧侶で、利休以来の千家の茶の湯では
この種の茶陶はほとんど使われていません。
17世紀に海外から請来された茶陶の多くは武家社会や交易に
関わった人々の間で珍重され、茶道界全体に行き渡るのは
もう少し後のことになります。
今月は遠州公が指導した海外の茶陶をご紹介致します。

赤膚焼

2019-5-23 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
先週ご紹介した古曽部焼と同様、遠州七窯に数えられてはいるものの
遠州公以後の窯と考えられている焼き物に「赤膚焼」があります。
現在では可愛らしい奈良絵でおなじみの赤膚焼ですね。
五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられました。
天正期、国主大和大納言秀長が尾張国の陶工与九郎を招き開窯を命じ、
正保期の当主本多政勝のとき、仁清が訪れて開窯したと伝えられますが
詳細は分かっていません。
寛政末年、当主であった柳沢保光(堯三)が御用窯とし、保光没後は一時衰微しますが、
天保期に、郡山在住の数奇者である奥田木白が陶工治兵衛の窯で仁清写等、
写物を焼成し再興しました。
遠州公との関連は定かではありませんが、秀長に仕える父と青年期を過ごした
大和郡山の窯であることが、なにか関係があるのではと思うと大変興味深いです。

古曽部焼②

2019-5-22 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は古曽部焼の歴史のお話しを。
寛政三年(1791)五十嵐四郎兵衛新平が京焼風な窯を築いて再興しました。
以後代々「古曽部」の印を用いて京焼風の茶陶や高取・唐津・絵高麗・南蛮写
などの雅陶を制作しました。特に二代信平は名手として知られています。
通常焼き物は集落に何軒かの窯元があり、焼き物を作りますが、
古曽部焼は、五十嵐家を唯一の窯元とする、五十嵐家の家業として生産されていました。
古曽部窯は、五十嵐家の敷地内に設置された登り窯の名称で、
最後に製品が焼かれて後20年以上すぎた1950年代に破損、窯を閉ざしたまま現在に至っています。

古曽部焼

2019-5-21 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
幕末の道具商田内梅軒が著した「陶器考」の中に記される「遠州七窯」の一つに
古曽部焼があげられています。
伊勢姫、能因法師隠棲の地としても知られる古曽部。
古曽部焼の開窯は桃山時代末から江戸初期とされ、
遠州七窯の伝承があるものの、確かな史料がありません。
そのため遠州以後の窯と考えられています。